第842話 モルソバーンにて 其の一 ⑥
街の東は、公爵の説明どおり、アーべライン一族が住む場所のようだ。
政を行うらしき建物や、兵舎らしき物も見える。
そうした建物が、限られた場所に嵌め込むように並んでいた。
坂を右に左にと蛇行するように登り切ると、石畳の円形広場に出る。
ここでサーレルと門の所で出迎えた男が、公爵とカーンに語りかけた。
内容は聞こえないが、楽しそうには見えない。
暫くすると高台の大きな建物から、暗緑色の長衣の集団が現れた。
立派な建物で、アーべラインの屋敷だろうか?
屋敷から出てきた長衣達の腰を見る。
見える範囲で武装している様子はない。
ただ、余計に話が纏まらなくなったようで、後尾の私達にも大声が届く。
相変わらず内容は不明。
そもそも馬上の公爵に礼をとらぬとは、不敬すぎる。
と思い見るが、そもそも状況がおかしいから不安しか無い。
そうして長衣の者達も加わりカーン達の間で話し合いが続く。
と、結構な時間待たされた後、公爵とカーン、それにサーレル達が長衣達が建物に動いた。
護衛と一緒にカーン達は建物に入るようだが、隊列は建物の脇の通路を進むように促された。
建物と建物の間に続く石畳は思うよりも広い。
目の前の館が巨大であったため、錯覚していたようだ。
通り抜けると、横に長い馬房が正面に見えた。
馬房の両隣は長屋に見える。
使用人か私兵用の宿舎か。
人影はなく、振り返れば館の窓も真っ暗だ。
その洞穴のような窓窓見て、これが夏の景色と陽射しがあれば、まったく逆の景色になるのだろうかと思う。
雨が降り、陰鬱にも不安な雲が流れる下では、そんな想像は無駄かもしれない。
手入れされた緑の木々、人工の池まである。
広場と庭園も兼ねているのか、その場で雨降る中、暫し兵士達は身じろぎもせずに立つ。
カーン達からの指示が無い限り、彼等は待つだけだ。
私は毛織物の掛物を巻き付け、防水布の下に潜り込む。
公爵やカーンの事が心配だ。
だが、護衛もいる。
カーン自身も強い。
だから、私は大人しく待つのだ。
心が少し重苦しいが、それを訴えても仕方がない。
不安だ。
又も不安が顔を出す。
私の悪い癖だ。
慎重さや周到さが過ぎる、心配性、臆病な私が顔を出す。
考えすぎるのは駄目だ。
人間とは不思議なものである。
嫌な予想や、不安というものを実現しようと無意識に動くのだ。
そう、人間は暗い予想をしたり、恐れている事を考え続ける事に力を使う。
失敗や痛みを繰り返し思い返すのである。
それは学びや次に備える為の自然な事であるが、過ぎれば愚かになるのだ。
例えばだ。
転んだら痛い。
転ばぬようにしよう。
では、転ばぬ走り方はあるのか?
で、ここで足腰を鍛え、装備を充実するという現実への働きかけになればよい。
だが現実に対処するために、非常に不健全な答えを手にしたくなる。
主に頭だけで考えていると馬鹿になるのだ。
転んでしまえば、転ぶ恐怖がなくなるのではないか?
バカバカしいと思うだろう。
けれど人間は無意識に、この愚かしい考えを好む。
痛いことを避ける、逃げる。
もともと転んでいれば、二度と転ばないですむという、意味のない答えをうけいれるのだ。
そしてこの答えを現実に実現しようとすると、こうなる。
転ばぬように、歩くのをやめる。
怖いから、生きるのを止める。
不安の種をまいて、水を与えるのは自分自身だ。
これはよくない癖である。
私は待つという時間が不安を育てるのを阻止すべく、違う事を考えようと探す。
モルソバーンの街並み。
目についたこと。
気になったこと。
そう、先程見かけた、紋様は何だろう。
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