第98話 幕間 後悔はしない ④

 その言葉とともに、目の前の顔が骸骨に変わる。

 対するカーンは、悍ましい呪詛ごと叩き潰してやると力をこめた。

 この時、何を考えていたのか。


 恐ろしかったのだ。


 教唆する呪詛を押しやるほどの恐れだ。

 そして相対する死霊術師が怖かったのではない。


 小さな娘の亡骸が怖かった。


 償えない事が怖かった。

 自分が死んでも償えない。

 それでも生きなければならない事が怖かった。

 後悔が怖かった。

 そうして剣が振り下ろされるその時、ふっと頭の中の靄が消える。


 瞬きするほどの隙きに、カーンの耳は捉えた。

 真面目くさった子供の、娘の声を。


「駄目ですよ、旦那。

 ここで殺生をしてはいけません。

 貴方は帰らなくちゃ」


 チリン、と鈴が鳴った。 振り上げた腕が止まる。


 娘が身を起こしていた。

 その震える手が差し伸べられている。

 そして死霊術師の袖に、その指が置かれ。


 何を間違った。

 何もかも間違った。

 何を見落としていた。

 何もかも見えていなかった。


 引き伸ばされた一瞬に、混ぜられる思考。

 カーンが何かを思う前に、娘は片手で袖を引き、もう片方も添える。

 そして、その意図を汲み取った死霊術師は、己が抱えていたモノを当然のように差し出した。

 瞬きひとつの間の事。

 そして娘は死霊術師の持ち物に言った。


「約束するよ、だから..我が名を預け、魂はここに」


 その先は聞こえなかった。

 だが、変化はすぐに訪れる。

 死霊術師の姿は薄れ消えた。

 娘に微笑み、頼りなげな少年の姿になり霞となって消える。

 次に、残された本は崩れ、茨のような蔦になった。

 これも瞬く間に娘に絡みつき溶けた。

 その娘はと言えば、再び倒れ伏し目を閉じている。


 剣を下ろす間の出来事だ。


 剣をおさめ、息を確かめる為に走り寄る。

 怪異の行方よりも、何よりも娘の息を確かめた。

 

 生きている!


 冷たい頬に触れてから、祭壇の回りを見回す。

 誰も、何も、何者の影も無いと確認している馬鹿さ加減を自覚する余裕もない。

 血の痕を探すが、それも消えていた。

 小僧と思えばできることも、娘と思えばそれ以上触れる事も憚られる。

 息があり、苦痛も面にはでていない。

 出血している様子もない。

 自分が殺した痕も、無い。


 殺した痕も。


 娘の顔には、額から頬にかけて藍色の模様が浮かんでいる。

 顔を飾る装飾品のように、蔓薔薇のような紋様が描かれていた。

 年若い娘に、酷い事だ。

 と、思いながら、カーンは膝をつく。

 そうして膝をつき、片手で己の口元を押さえた。


 安堵の息を吐きたくなかったのだ。


 これほどまでに、彼を揺さぶった出来事は、久方ぶりであった。

 故郷を焼いて以来の事だ。

 間違いに慄き、感情を乱すなぞ、非情非道な場所に生きていながら、なんとも情けない話である。


 己を取り繕うと顔をあげた。


 罪人を殺せなかった。

 完遂できなかった理由は多くある。

 何よりも自分が見誤った事が原因だ。

 カーンは、己の経験程度では太刀打ちできなかったと認めた。

 自分は過ちの多い人間だと知っている。

 今回も酷い間違いをしたと認めた。

 この奇妙な場所に、人の常識を持ち込んだことが間違いだった。

 本物か偽物かもわからないのでは、殺すこともできない。

 そしてこの娘に助けられた。


 無様だ。


 娘の脈を測る指が震える。

 安堵と屈辱、どちらが優るかわからないふりをした。

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