第684話 挿話 兵(つわもの)よ、剣を掲げよ盾を押せ (下)後編 ③

 蛙でもなく、さぎの嗄れた鳴き声でもない。

 一番近しいのは、猪だろうか?

 きぃきぃと引き攣るような鳴き声だ。

 それが段々と、言葉を紡ぐように決まった節を取り始める。

 舌を巻くような、何か不快で耳に残る韻を踏む。

 耳の奥、頭蓋の内側に、幻の痒みを覚える不快さだ。


 人の声ではない。

 鳴き声だ。


 サーレルの言ったオカシナ男とは、これか?


 イグナシオは、鳴き男の背後に目を凝らす。

 やはり暗い。

 そこだけ黒い煙りに覆われたかのように見えない。

 それでも人の輪郭らしき何かが潜んでいるのがわかる。

 人族ならば、長身。

 闇に薄い灰色のヒトガタだ。

 多分、足首までの外套、長衣をを纏う男、ではないだろうか?

 イグナシオには、人族の男の骨格に見えた。


 どれほどの時間が経過しただろうか。


 囂々と唸る風。

 鳴く男。

 佇む人影。

 蠢く何か。

 監視塔の光りは役にも立たず夜空を照らす。


 皆、無言で鳴く男が次に何をするのかを待つ。

 すると、揺らいだ。


 地に伏せるイグナシオ達は、何が起きたのかわからない。

 ただ、視界が揺れた。


 次の瞬間、突然、体は地面から浮き、一瞬の静止の後に、落下した。

 地面が揺れ突き上げられたのだ。

 地震か?

 揺れと地鳴りの後に、関の内側から、メリメリと何かが裂ける音が聞こえる。


 イグナシオ達は、ひたすら息を殺す。

 最初の突き上げの時に、自らの気配をあらわにしてしまったからだ。


 風が耳を塞ぐ。

 囂々とイグナシオ達の耳に蓋をする。

 暗い。

 視界も陰る黒い幕。

 これは何だ?


 漏れ出た気配に鳴く男ではなく、男の背後、ヒトガタの影が動いた。

 ヒトガタ、影は頭をめぐらす動きをした。


 関、藪、藪から森。

 

 沈思、それから..

 頭らしきモノを動かし、藪を、イグナシオ達の潜む場所を見た。


 バレたか?


 ...

 ...

 ...

 ...


 冷え冷えとした何か。

 視界が闇を重ねていく。

 その闇の袖から、何か複数の気配が蠢くのを感じた。

 ゾワゾワと何か、奇妙で不快な蠢き。

 何かが這い回り、広がり、食む気配。

 人の気配ではない。

 もっともっと細かで雑多な何か、生き物?


 それでも息を緩めず、イグナシオ達は気配を殺す。


 ...

 ...

 ...


 暫く後、徐々に闇が薄らいだ。

 湿気った冷たさが和らいでいく。

 墓所にて湿気る骨のような気配が薄れた。

 それでも動かず地に伏せていると、やっとソレが許すのを感じた。


 許す?

 何を許し、選別をした?


 ヒトガタは藪を名残惜しげに見やると、再び北へと戻っていく。

 蠢く闇を従えて。

 視界を遮る黒い煙りが身を退いて行く。


 イグナシオは考える。

 今の何かが神敵だとして、己で始末できようか?と。

 感じたモノは、まるで蝗の大群のような質量をもっていた。

 焼くには、どれほど必要だろうか?

 それにアレは気がついていた。

 確かに、ここに命があるとわかっていた。

 なぜ、こちらに働きかけずに去った?

 アレは、何だ?

 暴徒や人の気配ではない。

 今まで出会った害獣のようでもない。

 アレは、何だ?

 腐土と同じく得体の知れぬ、アレは?

 わからぬ。

 では、どうするか?


 考え疑問に思ったところで、やるべきことは変わらない。

 と、サーレルを見やる。

 彼はイグナシオに向かって小さく頭を振った。

 追跡者はいるのだろう。

 自分達には見えない場所に、最低でも二人は控えている。


 やがて鳴き男は、関の大門に近づいた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る