第683話 挿話 兵(つわもの)よ、剣を掲げよ盾を押せ (下)後編 ②

 深夜、馬を森に残し、関の近くの藪に潜む。


 監視塔の灯りは薄くおざなりだ。

 光る物を落として、イグナシオ達は地に這う。

 サックハイムは荷駄と共に森にいる。

 己の身を第一に、もしもの時は城塞経由でコルテスへ入る手はずだ。


 相変わらず風が強い。


 アッシュガルトから、内地に入ってもこの風だ。

 さぞや海辺は荒れているだろう。


 冬のマレイラは気が塞ぐ。


 それでも、こうして時間を忘れるほど地に伏せているのは、これも神への道だからだ。

 神の御心を知る道だ。


 やがて囂々とうなりを上げる風の向こう。

 闇が深く濃くなった。

 彼らから見れば、右側に関。

 左に森、そしてシェルバン中心部の山並みが間にある。

 その山の方向が暗いのだ。


 夜空に星は無く、流れる雲は重い。

 濃い藍色に灰色と白の雲が流れていく。

 夜であったが、それでも見える。

 しかして彼らが潜む藪の向こう、山並みが見える方向から、霧が枠ように闇が迫る。

 淀むような暗さだ。

 それは月や星あかりが無くとも見通せた夜を、消していくかのようだった。

 光らぬようにと、彼ら獣人が虹彩を整えたからではない。

 視力は変わらず、夜は昼間の如くだ。


 だが、暗い。


 それは靄か煙りのようにと地平を埋めた。

 監視塔の灯りは、心細げにその闇に線を走らせる。

 上へ、下へ。

 ゆっくりと巡る。


 すると赤茶けた砂利、雑草、木などが、闇に沈んだ中に浮かぶ。

 照らされて身の危険を感じているのか、それらは息を潜め影を留めて風にも動かない。

 そう、風は南から吹き、闇は北から降りる、

 靄ではない。

 監視塔の光りは滲み、朧に世界を映す。

 もし闇に何かが潜んでいるのなら、照らされたら途端、喰い付きそうに見えた。


 そんな他愛も無い事を考えていると、その灯りの中に一瞬だけ何かが見える。

 監視塔の光りは、何も気が付かずそのまま通り過ぎた。

 だが、一瞬にしてイグナシオ達獣人は、更に身を地面に伏せた。


 今一度、二つの灯りがゆっくりと行き過ぎる。

 やはり監視塔の者は見えていない。


 男だ。


 闇夜に男が歩いている。

 ふらりふらりと、背後に闇の霧を従えて、男がひとり歩いている。


 三度、光りが行き過ぎて、やっと監視塔が気がついた。

 揺れる男に光りが当たる。

 白い光りに男の輪郭が滲んだ。


 奇妙な男だ。


 何の人種か一見するとわからない。

 青白い皮膚に、眼と眼の間が離れている。

 のっぺりとした顔に、だらしない口元。

 薄い頭髪に、ぶよぶよと膨れた体。


 水死体が歩き出したかのようだ。


 男は関に向かって歩いている。


 一人か?


 否、違う。

 男の背後が蠢いている。

 背後、重い闇が蠢いていた。


 イグナシオは目を凝らした。

 何かが動いているのは見えた。

 だが、それが何であるのか判別できない。

 その蠢く闇の中心に、誰か、人がいるのがわかった。


 人?


 と、判断したのは、輪郭がヒトガタに見えたからだ。

 あの関に現れた肉塊を思い出す。


 害獣か?


 その視線を感じた訳では無いだろうが、それは闇から進み出た。

 監視塔の灯りは、相変わらず奇妙な男を照らしてたが、それにはまだ、気がついていないようだ。


 奇妙な男とヒトガタは、囂々と吹き抜ける風の中を、すすすっと急に滑らかに動いた。


 音はしない。


 監視塔の灯りが不意に歪む。

 一つ灯りは何も無い空を照らし、もう一つは、消えた。


 音はしない。

 風の音、だけだ。


 あぁ始まるのか?


 空に灯りの帯は消え、関の前には二つの影だけになった。

 そして、奇妙な声がした。


 あぁ始まるのだな。

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