第207話 笛を吹く者

 赤い色も奥へと続いていた。

 振り返る。

 開いた扉の内側にも、たくさんの手痕てあとが残っていた。

 ちょうど、開かない扉を叩き、引っ掻いたような手痕だ。

 誰かが外に出ようとした。

 でも、出られなかった?

 内側からなら開くのに。

 それから彼らはどうしたんだろう?

 そう言えば、何処かで手痕を見た。

 いつどこで見たのか、思い出せない。


 酒樽さかだるの部屋を抜けると、狭い石の通路になった。

 空気の流れはあるのだが、相変わらずの闇だ。

 葡萄ぶどう酒の樽のほとんどは、壊れて腐食している。

 レイバンテールは、酒をあきなっていた。

 そここに酒瓶が積まれている様子を見れば、規模も中々おおきなものだ。

 陶器の破片と腐った何かがいっぱいある。

 繁盛はしていなさそうだ。

 何かがあってこうなったのか。

 何もなくとも、経営は破綻はたんしていたのか?

 暗闇の中、物の隙間を警戒しつつ考える。

 馴染みの気配がするのだ。


 魔、の気配だ。


 これは頭上で行われているまじないによる気配か?

 あの怪人が言う、ことわりの消失の所為なのか?

 人が人である事をおとしめる行為が行われたと告げているのか?


 やがて通路が分岐した。

 右は静か、左は風が流れ来る。

 エリは、静かな方へと踏み出した。

 石の通路は更に狭くなり、小さな扉にたどり着く。

 鋼鉄の扉だ。

 私が扉に手をかける前に、扉の小窓が横に開いた。

 中からギョロギョロと目が覗く。


 すると、それは奇妙な節をつけて喋りだした。


『誰だい?

 だぁーれだい?

 ぼーくは、ねぇ、お腹が痛いんだよ

 だから、だぁれにもあわないのさ』


 奇妙な発音の甲高い声音が扉の向こうからした。

 私が何か答える前に、小窓がピシャリと閉じる。

 それにエリは扉を叩いた。


『あーぁ、うるさいうるさい。

 このままだと脳味噌がでてしまうよ。

 さっさと何処かへいけーってば』


 エリは更に扉を叩いた。


『しつこいなーしつこいぞ

 前の奴らとおーなじく、かじってやるよ

 そうだそーだ、少しかじってやれば

 おとなしくなるさーあはははは』


 奇妙な笑い声の後、きしんだ音をたてて扉が開いた。


 それは確かに青かった。

 私は隠していた小刀を抜き、エリの前に立った。


 それは小さな蝋燭ろうそくを片手に、フラフラとうごめいている。

 肉と骨、腐った何かが、人の形におさまっていた。

 うじのわいた半眼に、腐った面相めんそう

 青い頭髪が頭から突き出す。

 内臓もあらかた失われ、肋骨と腰骨に少しだけ筋肉が残っていた。

 一言で言えば、埋葬まいそうされた遺体。

 不思議と恐怖は無い。

 蛆の蠢きと腐敗した匂い。


「近寄るな」


『おーや?

 呼んだのは、おーまえじゃぁないか

 俺は腹ぁがぁいたいんだよぅ

 ようがないのかーい

 なら、かじってもへいきだよなぁ』


 ガチガチと歯を鳴らす。

 それにエリが手を叩いた。

 青い男は、その音で後ろのエリに気がついた。


『おーや、これはこれは

 俺にも、うーんがむいてきた

 これで腹のいたーみもとれる

 いたいーんだよぉ

 ずーっとずっと』


 あばらの隙間に指を入れながら、青い男は部屋に戻った。


『じゃぁ、ばばさまんとーころへ

 ごあんないだぁ

 それまで、俺がぁはなしてやるよぉ

 地獄へいーくあいだになぁ』


 青い男は角灯を持ち出し捧げ持つ。

 黄緑色の灯りに照らされて、通路がぼんやりと明るくなった。

 そうして何処かへ案内する気か、手招いた。


「ごめんな、エリカ、ごめん」


 不意の言葉。

 確認しようと男を見るが、腐った姿は揺れるだけだ。

 揺れてふらふらと歩きだす。

 エリは私の手を引くと、その灯りに続くのだった。

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