第70話 遠雷 ②

 男の腹から出ているのは、誰の手だ?


「我が妹の慈悲だけでは飽き足らず、更に手を伸ばすつもりか?」


 はっきりとした声音。

 その静かなナリスの恫喝に、手は震え動きを止めた。


(虚仮威しに過ぎぬ、恐れることは無い)


 手が動かぬ事を目の端で捉えながら、私は本棚へと寄った。

 男は微笑み、手も動かず、ただただ部屋だけが冷えていく。

 白い手は、青白い血管を浮かび上がらせ震えていた。

 本棚に張り付き、何かこの部屋から逃れる術はないかと探る。

 風?

 血生臭い風の流れが頬を過ぎた。

 それに混じって腐臭が広がる。


 チリン、と鈴が鳴る。


 チリン、リンリンと、今までになく、鈴が鳴り響く。

 目の前にあった手が驚いたように、闇に消えた。

 握り込むように白い指が消え、代わりに骨の指が袷を開いた。


(..戻ったか、何より喜ばしい事ぞ)


「もっと悪いだろう、腹から骨だぞ」


 思わず呟いた。

 私は背後の本棚を叩き、探った。

 出入り口があるはずだ。

 あの水の穴に戻るか?

 焦っていると、本棚と私はそのままに、部屋そのものが闇に消えた。

 燭台の灯りと机、本棚と私。

 男は、いつのまにか立っている。

 本を片手に、少し首を傾げていた。

 私は両手を前に突き出すようにして、闇に踏み出す。

 這い出した穴の水面も見えた。

 数歩歩く。

 すると本棚も机も消えた。

 男も消えてしまえばいいのに、灯りと男はそのままだ。

 その男は、辺りを見回し考える仕草。

 どうやら男にとっても、この現象は不可解のようだ。

 腹から出てこようとする何かも動きを止めた。


 出口はどこだ?

(どこからでも、お前一人なら帰れるだろう)


 繰り返される無意味な答え。

 私は目隠しをされたかのように、両手を翳して闇に踏み出す。

 足元も前も左右も定かではない。

 ともかく、あの男から離れなければ。

 前に進みながら、フッと背後で誰かの吐息を感じた。

 あまりに近くで漏らされた気がして、ちらりと背後を振り返る。

 直ぐ側には誰もいない。

 ただ、男は開いた本を片手で差し出すように掲げている。

 その片手を支えるように、男の腹から骨の手が添えられていた。

 一つ二つと手が男の腹から伸び、複数の細い骨の手が、男の腕を支えている。

 そしてその掲げられた本は、仄かに光り、明滅を繰り返す。

 やがて微かな囁きの旋律が流れ出し、それと同時に開かれた頁から何やら奇妙なモノが湧き出すのが見えた。

 それは細い糸のように見えた。

 何も無い虚空に、開かれた本の少し上の場所から糸が産まれていく。

 それは囁きと奇妙な旋律に合わせて、ふわふわと浮かび上がった。

 やがてそれは太さを増すと、男の体の周りを泳ぐ。

 そこまで見てとると、私は慎重さをかなぐり捨てて走りだした。

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