第71話 遠雷 ③

 走りながら、男から距離をとれているかと時々振り返る。

 まったく駄目だった。

 暗闇の中、男の姿は小さくなる事も無く、まるで追いかけてきているかのようだ。

 その男はと言えば、本から流れ出た糸が、帯となって体のまわりを回っていた。

 そしてその帯から更に、囁きを大きくした旋律が離れていく。

 帯の外側に、それは流れ出ると赤黒い光りの輪をいくつも浮かべた。

 美しく異様な光景だ。

 生臭い風が吹き付ける。

 あの広場の時と同じだ。

 風は男に集まり、逃げる私を這いつくばらせた。

 それでも逃げねばと、四つに這う。

 少しだけ、距離がとれたか?

 振り返る。

 吹き上げられた風に男の長衣と髪が浮いた。

 ふわりと浮くと囁きが消え、渦巻き巡っていた帯も霧散した。

 代わりに明滅する赤黒い輪が、幾重に男を中心に回転を始める。

 幾重にも重なり軌道を変える輪には、それぞれ不思議な紋様、文字のような物を描いていた。

 もしかしたら、それは男の掲げるオラクルと呼ばれるグリモアの書の言葉なのだろうか?

 それも輪の一つが、男の足元に消えると頭の中から消し飛んだ。


 足元に赤黒い輪が消える。

 すると一瞬、足元が光った。

 先にキィキィと喚く声がした。

 次に、男の足元から子供ぐらいの大きさのモノが出てくる。

 信じられぬ光景に、私は更に距離を取ろうと背を向けた。

 湿った肌の醜い子供、いや、子鬼か?

 生臭い風が再び吹き、背後から吹き付けてくる。

 次に、短い咆哮があがった。

 獣の叫び声だ。

 振り返るな、逃げろ。

 咆哮、悲鳴、鳴き声。

 背後の気配とざわめきが大きくなっていく。

 やっと下肢に力がもどり、なんとか立ち上がる。

 走れ、走れ。

 気持ちとは逆に、私はヨロヨロと進むだけだ。

 この吹き付ける風、呪いの風が行く手を阻んでいる。

 そも暗闇の中でのことに、蹈鞴を踏む。

 そうして嫌々振り返る。

 幸いにも距離は少し開いていた。

 それでも、逃げられる気がしない。

 男の周りには、化け物が集まっている。

 子鬼や多頭の獣、カーンが見世物にしようと嘯いていた蛇の姿のモノもいた。

 絵物語の中ならば、さぞ見ごたえのあるものだろう。

 だが、現実に見れば、悍ましいだけだ。

 それも男が死霊を従えるのなら、あれら魔物も死骸という事だ。

 どこから集めたかは知らないが、男は化け物の中心で、静かに首を傾けている。

 闇の中、化け物の中にいるというのに、それは午餐の後のように穏やかに見えた。

 そして私を追うように見えて、男はまったく何もしていない。

 そう何もしていない事に気がついた。

 男は私に声をかけ、化け物を呼んだ。

 それだけだ。

 男は私を脅すが、その意識は別に向かっている。

 恐怖にジリジリと後退を続けながら、その男が見ているものを探した。

 男を包むように、光りの輪は回り続けている。

 生臭い風は吹き、そして呼び出された魔物達は静かに、そして時々鳴いては、ある方向を向いている。

 私から見て左手、そちらには何があるのだ?

 私には同じく暗闇に見えた。

 上も下もわからないような、黒く塗りつぶされた視界。


 すると遠雷がした。

 ひとつ遠くで雷鳴が響き、黒い世界に紫電が奔る。

 今まで吹き付けていた生臭い風が止み、そして..

 四体の異形が現れた。



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