第69話 遠雷

 求める神はいない?


 私は求めているのだろうか?

 何を?


 光りを目指して泳ぐ。

 光りは水面から水中へと帯を描いていた。

 もがきながら、その揺らめく光りに手を伸ばす。

 すると、ぬるりと私は水から吐き出された。

 急に取り込まれた空気に、肺が痛みを訴える。

 体は濡れた様子もなく、先程の神が采配らしい。

 痺れをともない、目が明るい場所に慣れず、涙がこぼれた。

 眩しい。


(娘よ、

 心を閉じよ。

 澱み腐った臭いがする)


 誰かの嘆息と共に、冷気が辺りを満たした。

 徐々に視界が戻る。

 男だ。

 微笑みを浮かべ、あの男がいた。

 カーンが斬り捨て、煙のように消えたあの男だ。


(形通りに言うならば、あれは死霊術師ディーター・ボルネフェルトだ。

 使徒直系ボルネフェルト公爵家嫡子にて中央軍上級大佐か。

 だが、至ることはできぬ)


 何の話だ?


(子供は夜明けを待たずに死んだのだ)


 ***


 小さな部屋だ。

 床の一角が水面になっており、そこから私は這い出した形だ。

 これまでのすべてが奇妙であった。

 だが、目の前の景色は、更に奇妙奇怪である。

 壁は書物で埋まり、机は羊皮紙がつまれている。

 菱形模様の床は、赤と白の派手な色合いだ。

 美しい燭台が机に置かれ、部屋を照らしている。

 男は椅子に腰掛け、書物を開いていた。

 ここが宮の底だと言われなければ、静かな書庫といった具合だ。

 ただ、私という異物以外にも、おかしな事は多々ある。

 その一つが、部屋を満たす囁きだ。

 言葉でもなく、歌でもない。

 耳をすませても、意味を拾うことができない。

 むず痒いような、もどかしい微かな音だ。

 男は、すっと視線を寄越した。

 その顔もまた奇妙だ。

 特徴がない普通の、いや違う。

 感情の見えない顔だ。

 にっこりと微笑む口元。

 細められた目。

 私は痺れが残る体を起こした。


 出口は?


(どこも塞がれてはおらぬ)


 四方は書物の棚だけだ。

 火の気があるのだ、通気口はあるだろうが。


「君は誰だ」

(答えてはならぬ)


 男から、視線をそらした。

 怖い。

 焦点のあわぬ濁った目だった。


(考えるな、恐れれば覗かれるぞ)


「どこから入り込んだんだい」

(大丈夫だ、ここは宮の主が内だ)


「お前は、誰だ?」

(答える必要は無い。名乗りは魂の戸口を開く行いだ。

 無闇に名乗るのは、愚かな者だけよ)


 不意に部屋中の色が浮き上がる。

 赤、白、黒、茶色、緑。

 嘔吐を覚える色の反乱に、私は片手を床に置いた。

 男の気配も震え滲む。

 生き物の気配ではない。

 冷気だ。

 大きくて重い冷気の。


「オマエ、ダレダェ?イモウトガ、ハナカェ?」


 不意の女の声に、思わず男を見た。

 笑った男の顔。

 その弧を描く唇は動いていない。

 代わりに長衣の前が少し開いていく。

 下の着衣は見えず、喉元から下は真っ暗だ。

 真っ暗な影から、指が見えた。

 指が、布をかき分けて出てくる。

 私は怖気にかられた。

 誰の指だ?

 男の両手は書物上だ。

 誰の?

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