第68話 水底

 水の中だ。


 そうわかっていても、私の体は動かない。

 頭の中がかき混ぜられたように、痛い。

 ただ、胸は苦しくないし、暑くも寒くもない。

 水の中にいるのだが、その水とは、一枚幕を隔てているような感じだ。

 私の体は徐々に沈んでいるようで、目の前を気泡が昇っていくのが見えた。


 あの水の中なのか?


 泉の縁から落下した後、私は気を失っていたようだ。

 溺れた様子はないし、水の中なのに濡れた感覚もない。

 すべてが夢の中のような具合だ。

 もしかしたら、夢の中なのかも知れない。

 けれど夢にしては、意識が断ち切れていた間、何か気持ちの悪いモノを見たような気がする。

 不愉快なナニカ。

 それでも、私には何ら関係ない事で、何も罪悪感を覚える必要は無い。

 罪悪感?

 不思議だな。

 沈んでいくと、視界に白いモノが見える。

 どうやら水底に近づいたようだ。

 白いモノがゴロゴロと転がっている。

 ゆっくりとその間に落ちていくと、体が底に着いたのがわかった。

 ただ、それだけで何の感慨も浮かばない。

 奇妙な空白に、目の淵にある白いモノ。

 何だろう?

 ゆっくりと瞬きをする。

 腕?

 ここにきて、やっと首が動いた。

 見回そうとして、じんわりと感情が戻ってくる。

 足。

 彫像の手足?

 たくさんの手足が転がっている。

 白い、手足。

 そして意識が確かになるとわかった。

 人の、手足だ。

 断面には骨と肉が見える。

 血が淀んで、そこには黒い濁りが固まっていた。

 逃げなくては。

 逃げねばと思い、もがく。

 頭部も他の体の部分は見当たらない。

 蝋のように白い手足だけが視界を埋めていた。


(運がいい)


 ナリスの声に、心で言い返す。

 何処を見て、運が良いのか?

 最悪だ。

 それにナリスは笑った。


(奥に出口がある)


 ナリスが言う奥に光りが見えた。

 言われるままに、もがいて進む。

 手足に個人の特徴はなく、やはり彫刻の腕ではないのか、夢ではないのか、と、思う。

 辺境の森の奥。

 その穴の底だが、きっとここは森の奥ではないのだ。

 この場所に通じる穴は、いろいろな場所にあるのではないか?

 ここに迷い込んだ者は、きっといろんな場所からここに来るのではないだろうか。

 そしてこの水底に


(水底ならばな)


 どういう意味だ?


(ここを満たすのは、水ではない。

 宮の主の記憶だ。

 主は半ば眠っている。

 起きて羽ばたけば、この世は地獄になるからだ)


 地獄。


(主は篩にかける。

 歪んだ魂を殊更もとめる。

 人が人たる業を求める。)


 何故だ?


(人は死ぬ定め。

 そしてここは裁定の場である。

 ただし、間違えてはならぬぞ。

 人の善悪を裁く場ではない。

 理を保つ為に、不要なモノを取り除く場の事。

 そしてそれは実に主にとっては、つまらぬ小さな事々だ。

 故に、欲深い者は下僕たる番人が娯楽。

 醜く愚かな者は、主の遊具となるべく捧げられるのだ。)


 神の娯楽か。


(お前の求める神はいないのだ)

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