第802話 挿話 陽がのぼるまで(上)
不都合な記憶は、忘れている事が多い。
私の場合は、だけど。
苦痛、怖いこと、嫌な出来事。
あった事は覚えているのに、細かな流れや出来事は霞んでいる。
覚えている、思い出せるのは断片だけ。
怖かった。
痛かった。
苦しかった。
悔しかった。
そんな思いだけで、具体的な事は霞んでいる。
霞んで遠くて、抜け落ちている。
理由は、そうね。
私が馬鹿だから。
弱いから、かしら。
私は、私が嫌い。
弱くて、弱いことに甘えている自分が、憎い。
私は...
***
集会所に足止めになって数日。
町の人が殺された事件、あの事件の後。
巫女様や私達家族はアッシュガルトに留め置かれていた。
少しの不安。
猫のお墓を作ろうとしたら、いつの間にか死骸は消えていた。
少しの予感。
三公領主館がある町へと続く街道に、関ができた。
鉄格子の四角い箱みたいな金属が積み上げられて、あっという間に街道は塞がれた。
東内地への行き来は兵士が管理し、旅人はアッシュガルトで引き返す事となった。
三公の領土兵、という名のシェルバン兵は領主町へと追い立てられた。
アッシュガルトは静まり返り、城塞の武装した兵士が街角に立つ。
そんな中で難破船の船員達は、一人二人と亡くなっていった。
今では軽症の航海士がひとりだけだ。
軽症と見られた他の者も、急激に衰弱して亡くなってしまった。
お医者の見立てでは、傷をつけた何かの毒が心臓を止めてしまったそうだ。
傷をつけた何かって何だろう?
船が座礁して岩礁や残骸で傷がついたからじゃないの?
まぁ傷が膿んで毒が回ったって事なのかな。
わからないが、怪我人がひとりになったので、私も母さんも暇だった。
炊事洗濯もすぐに終わるし、街中は今、出歩く状態じゃない。
海で遊ぶ時期でもないし、何もやることがないのだ。
息のある航海士のお世話は、巫女様がみている。
どうも女性、それも母さんぐらいの年齢の人を見ると怪我人が暴れるのだ。
怖いみたい。
わからないけれど、錯乱が酷くなるから、巫女様だけが側にいる。
母さんは繕い物を見つけては手仕事をし、料理をしている。
まぁそれも暇つぶしだ。
集会所の中にいるのも気が塞ぐし、裏手の井戸端にいる事にする。
建物に切り取られた海と空。
防砂防風の石積の壁が見える場所に腰を下ろす。
波の音。
流れる雲。
囲まれ静かな空間。
忘れていられそうな気がした。
悩む事、恐れる事に疲れていた。
洗い物は無い。
空を見る。
海の方向に人影はない。
井戸端の樽の影で、空を見る。
何も怖くないでしょ?
問いかける自分。
無意識に問いかけて、気がつく。
怖くないでしょ?
猫を食い殺した男の顔。
大丈夫。
ここには誰もいないわ。
じゃぁなんで、そんな事を聞くの?
自分でもわかる。
がたがたと震える手を見て、少し笑った。
知ってる。
怖いことって気がついちゃうのよ。
いま、誰か、私を見たわ。
えぇ樽の影にいたのに、誰か、私を、見たわ。
震える指から目を引き剥がす。
そして辺りに視線を動かした。
別に何か気になった訳じゃない。
何も動いていない。
ただ、思った。
怖くないでしょ、いつもどおりよ。
静かな建物の裏手。
小さな空き地。
狭い通路の先、石積の壁。
誰もいない。
湿った洗濯物が揺れている。
窓辺には内側にさがる布。
暗い窓に、赤い二つの..。
怖くないでしょ、いつもどおり、みているだけよ。
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