第808話 挿話 陽がのぼるまで(上)⑦
動けない私を引き摺るように、お祖父ちゃんは天水桶から他の道を探そうと動く。
私達は細い路地に入り込んだ。
泣き叫ぶ人達。
争う人達。
赤い根の化け物。
恐ろしい男達。
一様に混乱し、興奮し、虚脱している者もいる。
お祖父ちゃんは私の手を引き、そんなたくさんの人を避けて走った。
私は段々とぼんやりしてしまう。
何もかもが遠くなって、その度にお祖父ちゃんが言う。
朝になれば大丈夫だ。
ビミン、朝まで耐えるんだ。
そんなお祖父ちゃんもわかっていたと思う。
逃げる先々で、街の人の中にも体がおかしくなる人が現れ始めていた。
だから、誰にも助けを求める事も、声をかけて一緒に逃げる事もできない。
もう、朝は来ない。
『ビミン』
お祖父ちゃんは私を今まで走ってきた道に戻そうと引っ張った。
行き止まり。
傍らでお祖父ちゃんが唸る。
行き止まりの小さな広場。
騒ぎにたくさんの人が集まったのだろう。
何が起きたのか確かめようって、街の人がいっぱい集まったんだ。
小さな広場、きっといつも皆で集まってお喋りしてたんだろう、木の椅子が置かれていた。
今では転がり破片を散らしている。
あぁ真っ赤だ。
赤い根が広がり、真っ赤だ。
『ビミン、逃げなさい』
私の家族。
私の世界。
小さな私にお父さんが言う。
今の私にお祖父ちゃんが言う。
お母さんも、私を逃がそうと。
「しっかりしなさい、ビミン」
お祖父ちゃんは剣をかまえた。
その剣は、化け物の血で腐食し今にも欠けそうだ。
でも、ひとりで生き残るのは嫌。
ひとりで、逃げるのは嫌。
ひとりぼっちの朝は嫌なんだ。
「ビミン、時間を稼ぐ。遠回りになるが、街の西側に抜けて城塞に」
『まだだ、まだ、神のお慈悲はある。お前は見られていない』
お祖父ちゃんの向こう。
行き止まりには、蛹と人と、あの男達がひしめいていた。
酷いにおい。
息ができない。
血の霧のような、汚れた空気。
『神様、子供だけはお助けください』
朝は来ない。
『逃げてくれ。
父さんは、もう、駄目だ。
あぁ神様、あぁお許しください。
お許しを』
父さんは、私を塔の上から投げ捨てた。
砦の尖塔、高い高い場所からだ。
川の流れに叩きつけられ、水を飲む前に意識を失い川面を漂ったらしい。
どう考えても落ちて無事な高さではなかった。
山城のタンタル砦は急な斜面にあって、側には激しい流れの川がある。
投げ捨てた場所を選んだわけではないだろう。
下が岩場なら即死。
川に落ちたからと言って助かるような流れではなかった。
それでも私は生き残った。
体が軽かったからか、奇跡的に下流まで流され難民の集団に拾われた。
私の恩赦が速やかに決められたのは、子供だったからという理由もあるが、あまりにも憐れだったからだ。
状況から見て、私は錯乱した父に殺されそうになった子供だった。
仕方ない話だ。
私の証言は、子供の認知できる範囲の話だった。
今更私が当時の記憶を理解し、改めて証言しても、それを証明するすべはない。
ただ、当時の記憶と理解が繋がれば、すべては鮮明に思い出せた。
砦を埋め尽くす反乱者達の姿、記憶の影絵にある姿は、亡者の群れのようであった。
思い出の中に見えた景色は、彼らも又、何かに導かれ追い立てられていた。
欲にかられて、猛り狂っている様子でもなかった。
誰も彼も己を見失い、人のようには見えなかった。
今、見えている景色と同じ。
軍に鎮圧される前に、少数を残して焼け死んだというが、本当は違うんじゃないかと思う。
目の前の景色と同じく、彼らは喰らいあったのではないか?
あの後、父さんの中身は食い殺されてしまったんだろう。
だから父さんは、私を逃した。
私を投げ落とし、神の与える慈悲に縋った。
泣きながら、笑いながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます