第667話 挿話 兵(つわもの)よ、剣を掲げよ盾を押せ (下)前③
元々、シェルバンとボフダンの境には、深い渓谷があった。
領境はその渓谷から西側、少し離れた場所にシェルバンの関と関壁がある。
その壁は長大であり、北の山脈まで続くが、今となっては崩れた石くれの部分も多い。
そして渓谷は降りるには深く、越えるには非常に難儀な場所であるため、ボフダン側には何も無いのだ。
本来は何も無い。
貴重金属で作られたボフダンの橋が2つほどあるだけだ。
美しさと強度を持つ、神代の代物と言われても納得ができる巨大な橋である。
それが北と南にあり、兵士が置かれ関となっていた。
他は自然の境界だけである。
故に人攫いなる蛮行も、為そうとなればできなくもない。
兄弟領地という考えのもと、線引をしたというのに。
片方の土地から来るのは、蛮族並のケダモノどもだ。
「今は渡れそうな場所に、色々、仕掛けを施したよ。
領土兵も増強したしね。
君たちと同じ種の傭兵も雇ったんだ。
実はね、君のところの獣王陛下の口利きで」
夜、相対したボフダン公がつらつらと世間話を流す。
世間話という現状報告だ。
年若い見た目、浅黒い肌に色硝子の眼鏡をかけて目元が見えない。
黒く縮れた髪が、これも色鮮やかな装飾品で飾られている。
見たこともない派手派手しい格好の、よくわからない人種に見えた。
歴とした長命種貴族のはずである。
両手には金銀宝石の指輪。
全部の指にだ。
重いし物が掴めないだろう。
それに眩しいし騒々しい。
身動きする度に光り輝き、ジャラジャラと音がする。
それに対して誰も何も指摘はしない。
身分と言うより、指摘したら負けた気分になるからだ。
イグナシオもいつもどおり、冷静な表情のままでいる。
驚いたら負けだ。
それでも目線は猫が動くものを追うように、相手の動きを見てしまう。
あぁイライラする。
と、内心ぼやく。
耳から下がるは、見たこともない意匠の銀の飾り。
毳々しい貴族の女よりも、目に痛い。
その極楽鳥のように飾り立てた衣装は、重そうな絹だ。
侍る女達の方が慎ましやかに見える。
それでも饗しは丁寧である。
獣人に合わせた食べ物に酒。
時間も無理なく、翌日からの活動に支障がないようにと細々と心配りが見える。
「本当なら、七日七晩宴を催したい所だけどね。
残念だが、君たちに、今、私が何かを物申す事は無い。
世間話以外はね。
そこの君ならわかるだろう?
本妻との愛を失いたくないんだ。
だから、そろそろ過去は精算しないとね。
今までも十分に手切れ金は弾んだはずなんだけどねぇ。
それでもたりないと、皿に乗った料理まで手掴みされると流石に困る。
下品だしね。
私はね、下品な女が嫌いなんだよ。
私自身が下品だからね。」
ちらりと傍らのサーレルを見る。
そんなイグナシオを見て、彼は笑顔のまま口を開いた。
「我々との友誼を失いたくないとのお言葉ですよ。」
なるほどと酒杯を片手に、イグナシオは頷いた。
宴で語られる言葉の殆どが、よくわからない遠回しの例えなのだ。
これでぶよぶよと肥え太った惰弱な中身の男だったら、解説を願う事は無い。
眼の前にいる支配者は、自身も海に乗り出す荒くれ者だ。
サーレルの事前情報である。
アレクサンドル・エイリア・ボフダン公爵は、先祖を海賊とする海の男だ。
理由の分からない格好は、彼の尊敬する先祖に敬意を評しての事。
ではなく、客をからかう目的らしい。
どうしてこの国の高位の貴族は、真っ当な政治をする者に限って頭がおかしくなるのだろう?
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