第849話 モルソバーンにて 其の二 ④

 寝たきりになり、医者が彼の右手に水分と栄養をいれる管を通している。

 辺境では見たこともない、高度な医術だ。

 公爵はヤブ医者と宣わったが、十分な診察は受けたようだ。

 体も綺麗に手入れされ、誰かが心を込めて世話をしているのがわかる。

 少なくとも、見た限りでは。


 家族と何処へ向かう所だったのだろう?

 もしや逃げ出す途中だったか。

 酷く悲しい出来事だ。


 近寄り、その布団の端に手を置き、そして..


 ..おかしい


 ぞわりとした。

 背筋に冷たい手が触れたような感じ。

 おかしい、おかしいぞ。

 目を瞬いて、己が手を見る。

 布団に置かれた私の手。

 本来なら布や詰め物の柔らかい感触がするはずだ。

 でも、違う。


 生暖かい塊に、手が潜り込んだ感触だ。


 生暖かい水ではない。

 ずぶりと柔らかく滑った何かに手が埋まる。


 ゆっくりと手を引き戻す。


 何も変わらぬ手がある。


 感触だけが粘ついていた。

 なんだろうか。

 泥じゃない。

 粘々とした、糊?


 テトがそんな私を見て首を傾げる。


 私はアーべラインの顔を見る。

 見て、目を凝らす。

 もしや、という小さな疑惑。


 目隠し。


 私だけが見えなくてはならない事、が隠された。


 逃れようとしたな?

 このグリモアの主を謀ろうとする、愚かな嘘をついたな。


 グッとわきあがる憤怒。

 は目隠しをはぎとった。

 露を払うように嘘は取り払われ、関の痕跡と同じものが目に入る。


 思うより広い範囲だ。

 嘘、この幻惑の呪いは、どこからだ?

 深呼吸をし、一度目を閉じる。

 そして再び手を..


「どうしました?無理な事はなさらず」


 置いた手を思わず跳ね上げる。

 強い抵抗。

 絡みつく見えないモノ。

 そんな私に、公爵が椅子から腰を浮かした。


「姫?」

『まずい』


 ただ、一言が浮かぶ。

 ぐるぐると目が回る。


 極彩色の混乱と恐怖が視界を覆う。


 まずい。


 歯が勝手に音を鳴らし、不意打ちの恐怖が体を締め上げる。

 悲鳴、音のない声が出る。

 制御できない五感に、私は弾き飛ばされた。


 それでも視界はやっと外界を映し、公爵が椅子を蹴倒して側に来る姿が見え。

 更に護衛の二人の動き、ニルダヌスが扉を..開けて

 一時の間だ。

 私の体は自由を失い、叫ぶ。


 この恐怖は私の物ではない。

 これは私の悲鳴ではない。


 テトが私に飛びつく。

 その勢いで、私は床を認識した。

 つまり床に倒れ、公爵の手がそれを支える感触がわかった。

 次に誰だろう、ザムかモルドが私達をアーべラインから引き剥がすのだった。


 ***


「何をやってんだ、馬鹿どもが」


 気がつくと、カーンが私の頬を叩いていた。


「しっかりしろ、おい」


 音の無い悲鳴は、男に届いていたようだ。

 名残に噛み合わぬ奥歯を鳴らしながら、私は頷いた。


『生きている、だが』


「あぁ生きてるが、何があった?」


『アーべライン殿は生きておられる』


 私は寝台に眠る男に顔を向けた。

 私達はまだ、寝室にいる。

 公爵も部屋の隅で、ニルダヌスもいた。

 二人の困惑した表情、それにも頷いて見せる。


「この男がどうした?」


『見たままを言葉にするのが、難しい』


「何が見えた?」


 その見慣れた顔を見上げる。


「言いたくないのか?

 言えないのか知らんが、嫌なら言わんでいい。

 深呼吸だ、そうだ。

 エンリケに診てもらうからな」


 混沌の海から、言葉を探す。


『人ではない』


「ん?」


『アーべライン殿は、悪意に包まれている』


「悪意?」


『人の感触じゃなかった。

 人が作り出す悪意ではない。

 人が思う善悪ではない。

 ただただ、異質なモノに包まれている。

 まるで..』


「まるで?」


『あの、鉄の小箱を開けた時と同じだった』


「この男がか?」


 私の臆病さで、彼等まで災禍が及んではならない。

 カーンに不利に働く事は絶対に嫌だ。

 それだけは覚えておかなければ。

 私は、吐き気を押さえながら、カーンの指を握った。


『彼の魂を探さねばなりません』


 器から魂が引き剥がされていた。

 だが、生きている。

 生きて、今も悲鳴をあげ続けているのだ。

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