第854話 モルソバーンにて 其の三 ⑤

「あの者達は、いつからおかしい。そうだな、いつから取り繕う事ができなくなったのだ?」


「もう、随分と前からです」


「人別を調べた。

 アーべラインの行方知れずの一族は、どうなったとお前は思う?

 お前や正気の街の者達は、どうなったと思ったのだ?」


 娘は、少し考え込んだ。


「顔を上げなさい」


 公爵の言葉に、彼女は恐る恐るという感じで面を上げた。

 薄い肌に雀斑の散った娘の顔は、白く青ざめている。

 困ったように下がる眉、それでいて公爵をじっと見返す視線に嫌悪も恐怖もない。

 身分差に恐れを抱くが、多分、安堵している。


 一人ぼっちの恐ろしさ。

 誰の助けもないと感じる絶望。

 死の気配。

 孤立無援の中で、意識のない人の世話を続けたのは、それが彼女の拠り所だったのだ。


 そしてやっと、助けてと言える相手が現れた。

 例え更に悪いことがおきたとしても、孤立無援で潰えるよりもましだ。

 長く辛い日々だったのだ。


 公爵も彼女の心がわかるのだろう、美しい面をふっとゆるめた。


「王国の兵士を呼んだ。

 もう、これ以上、恐ろしい事はおきない。

 遅きに失した私が信じられずとも、彼等なら信じられるだろう。

 ほら、ごらん。

 彼等は強く見えるだろう?

 ちょっとやそっとの事では、彼等を負かす事はできない。

 ほら、見てご覧。

 彼なんて、まるで山の神のように、りっぱな兵士だろう?」


 それに娘は、公爵の側に控える獣人兵士を見た。

 公爵の言う彼は、特に強面の御仁である。

 なにしろ先程まで、公爵に縋り付こうとする頭の腐ったような者を取り押さえたり、殴りつけたりしていた猛者である。

 オービスやスヴェンの系統だろう、東内地ではお目にかかる事も無いだろう重量だった。

 当の御仁は、朴訥とした雰囲気の可愛らしい娘に見つめられ、そうとう焦ったようである。

 多分、焦りすぎて笑顔を返したつもりで、ニヤリと極悪な表情を浮かべて見せた。

 すごく怖い威嚇顔。


 それにカーンの腕が少し動いた。


 爆笑だ。

 内心、爆笑している。

 笑いを堪えているのが伝わる。


 失礼ですよ。


 私としては、娘が怯えて泣くのではないかと心配になる。


「..お前のほうが失礼だろう」


 だが、公爵のお陰か、娘は少し笑顔を浮かべた。


「心強いであろう?」


「はい、宗主様」


「話は戻るが、行方知れずになった者達の事を話してくれるか?」


 ***


 糸は、アーべラインの部屋の窓から外へと続いていた。


 私を抱えたカーンを先頭に、イグナシオとザムが続く。

 私達四人が、アーべラインの館を出たのは、夜も更けた頃だ。

 未だに雨がふっており、モルソバーンは闇に沈んでいる。


 公爵の元に兵を残し、今夜はこの館周りも囲んだ。

 何が起きても、公爵をサックハイムが確保して逃げる。

 別段、このモルソバーンが滅びたとしても、アーべラインが死んだとしても、公爵という駒が残っていれば良いのだ。

 獣人兵力を削らずに、公爵を本拠地に残るであろう残存兵力の元へと送り届けるのが目的である。

 原因追及は二の次なのだ。

 もちろん闇雲に奥地へ向かうのは愚策である。

 故に、このモルソバーンの騒ぎを平定するのが最上であった。


 そして私達四人だけになったのにも意味はある。

 結論から言えば、逃げ足を早くする為だ。

 サックハイムを公爵に残したのと同じ理由で、能力からの人選である。

 認識から行動までの時間が短く、肉体的に足が早く腕力的にも問題がない。

 即断即決、躊躇わずに行動できる人選らしい。

 モルソバーンを遺棄する場合、あの高い外殻を素手で越える事ができる条件も含まれる。

 

 思い出されるのが、神殿の壁を依頼人を背に越えた護衛の人の事だ。

 獣人の能力は、本当に人知を超える。


 そして誰が運ばれるだけの荷物かは、言うまでもない。

 が、越えられない目的で作るのが壁で、越えられないのが普通なのだ。

 つまり、私は普通なのである、ふんっ。

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