第60話 選定者
どれくらい立ち尽くしていたのか、私は両手が震えている事に気がついた。
意志とは関係なく、両手が震えている。
恐慌が側まで来ている。
落ち着けと言い聞かせるが、悲鳴が喉奥から溢れそうだ。
考えがまとまらず、叫び闇雲に動きだそうと体が震える。
(娘よ、魔が満ちてきたぞ)
懐からの声に、私は息を吐いた。
何度も吐き、震えを止めようとして、頭痛を感じる。
「魔、とは?」
(力)
「意味を」
(知恵)
「実際の意味を」
「お前の世界を壊すモノだ」
「わからない」
「目隠しをとるだけだ」
ナリスがフフッと笑った。
それは今までの感情の抜けた高い声質とは違い、壮年の男の声だった。
「娘よ。
お主は、既に侵食を受けた。
見えぬモノが見え、聴こえぬはずの声が聞こえるようになった。
だが、それは見えぬと思っていただけの事。
聴こえぬと思っていただけの事。
我と言葉を交わす事を、次第に躊躇わぬようになったのも。
お主の心、考え方の目隠しが取れだだけの事だ。」
「信じられるか」
「信じたくないか。
だが、恐れることは無い。
元からあった事々が、顕になっただけのことよ。
だが、良きことばかりではない。」
フフッと含み笑うとナリスは続けた。
「共に隔たりあれば、節度が保たれる。
隔たりとは、約束事だ。
差別区別ではなく、約束事なのだ。
その垣根が消えれば、弱き者は死ぬ。
つまり、魔とは、病に同じなのだ」
「病?」
「身の丈に合わぬ力は、愚かな人には毒なのだ。」
「その毒が満ちるとは、何だ?」
「蝕まれ変質し、死に至る。
その前に、帰るのだ」
「私だって、こんなところにいたくない!」
「人でありたいならば、道を探し帰るのだ。一人でな」
繋がれた姿は、動かない。
「爺、皆、怖い。どうすれば」
霞み始めた目に、石碑群の端から歩いてくる姿が見えた。
大きな姿だ。
カーンと同じぐらいだが、あの男ではない。
両手に鉈が握られている。
相手も私に気がついたのか、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
相当に重量があるのか、石畳が抉れるような音がだんだんと大きくなってきた。
逃げる隙きが無い。
見上げる男の顔は、青黒い。
あれも公爵の隷下なのか?
「否。死人でもなければ、隷下でもない。
もちろん、人でもない」
ナリスの声は楽しそうだった。
男は繋がれた五人の前に来ると立ち止まった。
そうして繋がれた姿を、鉈で確認する。
私は悲鳴を上げていた。
鉈で、一人ひとりの腹を抉ったからだ。
盛大に悲鳴を上げる私を他所に、刺された彼らは何の反応もみせなかった。
血も流れなかった。
彼らは本当に、時間がたった、死体なのだ。
口を押さえて唸る私に、鉈の切っ先が向く。
刺される、のか?
刃物は、私の顔の前で止まった。
ナリスの声は楽しそうだった。
「宮の番人ぞ」
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