第886話 モルソバーンにて 其の七 ③

 去年の私が同じ物を目にすれば、どうなっていただろうか?

 無意味な仮定だ。

 過ぎ去った何かを取り戻せはしない。

 過去を振り返り、懐かしむか。

 目の前の事柄に理屈付けをしたいのか。

 グリモアの視界を通して考える。


 ここに魂は無い。

 救いを求める命は無い。

 

 ただし、ただしだ。

 許されざる行いには変わりない。

 恐ろしい?

 忌むべきこと?

 正しくない?


 グリモアのざわめきが私を満たす。

 ざわざわと私を取り囲む。


 たくさんの聴衆に囲まれた私。

 では、私はそれに何を思う?

 過去の私ではない。

 今の、供物としての私だ。

 呪われ半ば身動きのとれない私の考えは?

 今の、私、人からこぼれ落ちた私。


 グリモアを含む心に、小さな明かりが灯る。

 悲しみ、恐怖、人としての感情が薄れ、思うのだ。


 許してはならない。


 出会った人達の顔が浮かぶ。

 故郷の村、旅先の人、関わりになった神殿の人達。

 言葉を交わした人の顔、いろいろな人達。

 そう去年の今頃は、会うこともなかった人達だ。

 皆、生きて日々忙しく暮らしていた。

 生きている。

 そして死も、たくさんの死も見た。


 私は、嫌だ。

 悲しいことが嫌だ。

 死が嫌だ。

 争いも憎しみも、暴力沙汰も嫌だ。

 痛みも苦しみも。

 誰かが苦しむ姿も見たくない。

 怖い。

 毎日、苦しみを探し恐れるような暮らしは嫌だ。


 でも、人が生きていれば、苦しみも悲しみも死も、必ず訪れる。

 ならば、憎しみや恐怖、暴力を少しでも減らしたい。

 無力な己が願う事。

 傲慢で無知な綺麗事。


(違うよ、強大な力を持ったグリモアの主さ。

 ふふっ、願ってごらんよ。

 君の正しさを願うんだ。)


 けど、それを願うなら代償を払わねばならない。


(そうだね。よくよく考えて願うのさ。

 何を差し出し、何を失って、何を得るかをね)


 何が私にできるだろうか?


 ***


 壁を登りきる。

 先に見えるは、広大な空間だ。


 ぼぅぼぅという音。

 そしてカサカサという音が鮮明になる。


 黒々としたモノは、半球形の天井をも覆う。

 太い管が壁に伝い、その中間には食虫花のようなモノが口を開いていた。

 その口からぼぅぼぅと音をたて、白い霧が吹き出している。

 その霧は暖かいのか、この広い空間は湿気って胸苦しかった。

 視界も滲み、床一面を覆い蠢くモノもテラテラと滑っている。

 カサカサという音の正体は、その床を這い回る蟲だった。

 百足のような姿で、私の背丈とかわらぬ虫が、万をこすほど床を埋めている。

 ただ、侵入者たる私達に、蟲は興味を示さない。

 赤茶色の表皮を光らせて、ひたすら床から滲み出てくる粘液を食べていた。


 私達が進むと、百足は隙間を開ける。

 床には海綿のように小さな穴が開いており、その穴から薄緑色の粘液を出していた。

 歩くと粘ついて滑る。

 軍靴の裏に滑り止めの刃が出ているので何とか歩けるが、私なら転んで百足に齧られているところだ。


 視線を先に向ける。

 白い湯気が薄暗い世界に揺れていた。


 私達は、何を目指しているのか。

 アーべラインの糸は、すでに見失っていた。


「焼くか」

「空気の流れが怪しいっす。俺達はいいっすけど、巫女様が窒息しかねないですよ」


 皆で、辺りを見回して困惑していた。

 その時だ。

 ぼぅぼぅと音をたてている花とは別に、何かが耳に届いた。

 人の呟き声のようなものだ。

 それは私だけでなく、他の者にもしかと届いたようだ。

 四人で目を見交わす。

 私達は、音のする方へとゆっくりと歩き出した。

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