第786話 孤独の岸辺(下)⑨
カーンは手紙を暖炉の火に焚べると、空気を入れ替えるつもりか、窓の開け口に鉄棒を引っ掛けた。
器用に取っ手を引き出すと、音を立てて厚みのある硝子窓が隙間を開ける。
遠雷は去り、ごうごうと強い海風が吹いていた。
「中途半端に家族らしき形が残っていて、散々嫌な思いをした奴はな。
どこか冷めているんだ。」
冷めている?
「冷めてる、自覚っていうのか?
普通じゃない自分ってのが、現実としてわかっちまうって意味だな。」
冷えた湿り気のある風が部屋に吹き込む。
「ニルダヌスの孫にとって普通ってのは、遠い灯りだ。
普通ってなんだ?って考えるような暮らしだったろう。
同じように家族も、普通には、なれない。
自覚があるんだ。
気が付かなくていい現状認識って奴だ。
だが、救いもある。
状況を理解しているからこそ、お前が差し出す手をきちんと握り返せるだろう。」
風は吹き抜け、暖かな空気を押し出す。
換気が終わり、カーンは窓を閉じた。
「不幸じゃない。
お前が思うよりも、ずっとずっと救われる。
相手はきちんと受け取るだろう。
祖父の首を晒された方が、確かに辛い思いは減るだろう。
だが、祖父が罪を償い続けている方が、心は救われる。
きっと安堵する。
死んでくれと望むよりも、死なないでくれと望める事の方が重荷が無い。
そんなもんだ。」
私が浅慮でした。
「お前が普通や家族に憧れるのはあたりまえだ。
謝れって話じゃねぇよ。
お前が考えるより、今回はうまくやったって話だよ。
ただ、気になる事がある。」
気になる事?
「何で公爵は買う気になったんだ?
ふざけた話を信じたのか?
掘り起こした恩義?
利になる明確な理由がねぇ。」
旦那の中では、公爵閣下はそういう人物評なのですね。
「マレイラの筆頭貴族が、顔だけの男だったらよかったのによ。
で、何を言って売りつけた?」
事実だけを。
処刑を回避したい事。
奴隷として、彼の命を預かってほしい事。
彼の孫に、時々、連絡を許してほしい事。
後は、不可解な事の理解に、彼の経験が役立つかも知れない事。
どちらかと言えば、私の願いを書きました。
「それだけか?」
それだけです。
返書には、当人同士で話し合ったそうです。
多分、それで決めたのでしょう。
「それで承諾すると思ったのか?」
いいえ。
ただ、私のまわりに、人族の方で彼を買い上げる事ができる唯一の人だった。
無理ならば無理で、他の手段を探したでしょう。
「何を考えているのか気になるが、まぁ目の届く範囲に置く意味はあるだろう」
危険だと今も考えていますか?
「今更なんだよ」
あぁ、何故、今か?という意味ですね。
「東の騒動と繋がりがある。
では、どんな繋がりかといやぁ、確かな事は何も無い。
だが端々で、小さな兆しがあった。
南部人の俺達に向けての、な。」
兆し、ですか?
「あぁ、この東マレイラの騒動の胡散臭さってのは独特だ。
見たまんまの化け物騒動じゃねぇ、その後ろから漂ってくる腐敗臭がな、似てるんだよ。
何に似てるかっていやぁ、タンタル砦の、つまり南部浄化の原因だな。
あの当時のわけのわからねぇ感じに似てるんだよ。」
真剣な表情の奥に、とても大きな感情がある。
それは怒りではない。
たぶん、私が言う事ではないだろう、けれど。
「誰かが欲をかいたから誰かが間違いをしたから、結果、多くの悪い事がおきた。
って、表面はそんな感じなんだがよ。
何か違うんだよ。
その違和感だがよ、原因がよくわからねぇってのがひとつだ。」
原因ですか?
「単純な話だ。
心臓の鼓動が止まれば、死ぬだろう。
だが、そもそも心臓が無くなっているのに、抜き取られた痕が無い。
そんな話だよ。
原因があって結果がある。
理屈の通らねぇ話でも、原因があっての結果だ。
で、ニルダヌスの証言だ。
じゃぁ偶然なのか?
偶然で不幸がふりまかれるか?
生き返らせた男は、何故、反乱を起こした?
金も地位も欲しがったとしては、それらに見向きもせずにタンタルでの大虐殺だ。
狂人の理屈があるなら、それが知りたい。
処刑という判断に賛成をしないのは、俺自身が見極めたいのもあるのさ。」
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