第816話 挿話 陽がのぼるまで(中)⑦

「難民収容所にお祖父ちゃんが来て、その時には母さんもいた。

 船のあるうちに、外に出る手続きをするのに、お祖父ちゃんは急いでいた。

 教会にいた母さんと話したことある?」


「個人的には無い」

「母さんはいつもどおり、ちょっと微笑んでぼんやりしていた。

 話しかけても何も答えなかったし、私の事を聞いても来なかった。

 父さんのことも、何もかも。」

「娘の生死にも関心がなかったのか?」

「違うの。

 母さんには当時から、今が無かった。

 今を生きる時間に暮らしていないの。

 ずっと父さんの生きていた頃の時間だけがあるの。

 貴方達の記録にある通り、母さんは壊れてしまっていたの。

 きっと私も壊れていたんでしょうね。

 何もかも信じられない。

 どうしたらいいかもわからないから、口を閉じた。 

 私は怖いことから逃げるか忘れることにしたの。

 小さな私は必死だった。

 安心できる場所が無くなって、誰の手にも縋れなかった。

 だから、そんな母さんに問いただす事はしなかった。」


 優しい言葉。

 変わらぬ態度。

 それはおかしな話なのだ。

 本当は、駄目なのだ。

 けれど私は、城塞の単調な暮らしこそが本当だと必死でしがみついていたのだ。


「処刑されたのは、本当に父さんだった?」


 私の問いに、男は眉ひとつ動かさずに返した。


「馬鹿なことを言うな」

「私が投げ落とされた時には、殆ど喰われていたと思う。

 中身を確かめたのかしら。

 中身はどうなったのかな」


「衆人環視の元での処刑だ。

 立会人も多数であろう。

 不信な訳があるまい」


「焼いたの?

 死体を晒して焼かずにいたとしたら、よくないわ。

 今日のように根や茎が這い伸びて、誰かに取り憑いて喰ったかもしれないもの」


「くだらない」


「街にいた化け物、赤い根や茎、それに蛹は人を食べたわ。

 その蛹をあの男達が食べると、あたりが濁っていくの。

 蛹は見たでしょ?」


 さしずめこの人からすれば、私は嘘つきの愚か者。

 わかってる、口で言っても信じはしない。


「街の人の体から、赤い根のような物が広がった。

 葉脈みたいに広がって、次に太い茎が出てくるの。

 人間を吸い上げて蛹みたいな物が膨れはじめて、最後に大きな口ができる。

 その蛹の近くには太い茎に丸い目玉も見えた。

 人間から根が生えて実がなって、それをあの男達が食べる。

 食べると空気が淀んで、毒みたいになって」

 

 何も言わない男に、気持ちが萎える。

 けど、言いたいことは最後まで言わなきゃ。


「喉の所から動いてた。

 皮膚の下を動いて、鎖骨に移動して。

 最後の晩に見た、父さんの顔とそっくりだった。だから」


「だから何だ?

 お前たちの何が変わるんだ?

 お前の父親はもともと卑怯者で嘘つきだった。

 他人の生活を奪い取ろうとした。

 愚かすぎて、故郷を不毛にした。

 お前を、こうして苦しめているのは、誰だ?」


「原因を知りたいだけ」


「原因が、理由があれば、お前の父親たちの罪は許されると思うか?

 そう思うなら、お前もその子として罪を背負わねばならぬ。

 積み上げられた死体の山に、死ぬのは当然だと言えるのならばな」


 男は嗤った。

 冷え冷えとした嗤いだった。

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