第815話 挿話 陽がのぼるまで(中)⑥

「下が急流になってた。

 父さんも、その頃になると変だった。

 気分がころころ変わって、まるで別人みたいだった。

 私も怖くて、なるべく塔の部屋から出ないようにしていたの」


 男は仕切りの布を引くと、他の作業の者に聞かれぬようにした。


「声を落とせ。あの砦にいつまでいたんだ?」

「わからない」

「わからないはずがなかろう?

 それとも嘘か」


 黒い瞳に日輪のような黄金の輪が回っている。

 輝くその瞳は、見る者を怖じけさせた。

 でも、この人は少なくとも正気だ。


「夏の終わりだった。

 多分、最後の年だと思う。

 皆が焼かれた年。

 確かな事はわからないの。

 私は、閉じ込められていたから。

 部屋から出た後も、気づいたら別の場所だったし」


「別の場所?」


「最後の晩、父さんはずっと泣いていた。

 私が慰めようと近寄ったら、突き飛ばされた。

 それから私を両手で抱えると、尖塔の窓から投げ捨てたの」


 男は悪態をついた。


「記録には、そんな話は書かれていない」


「嘘だったらいいのにって、私もずっと思ってた。

 記録って、軍の裁判の方でしょ。

 私は小さな子供だったのよ、記録も別でしょうね。

 収容されたのも、最初は孤児の施設だったし。

 調べるなら、獣人共同体の記録の方ね。

 それに私もずっと勘違いしていたの」


「勘違い?」


「父に殺されそうになった子供だって認めたくなかった。

 だから考える事も思い出すことも、止めた。

 子どもの自分には辛すぎて、勘違いを見抜けなかった。」


「勘違いではなかろう」


 呆れ混じりの男の表情に、私も笑った。


「いいえ、勘違いよ。

 今日、思い出した。

 父さんは、私を助ける為に窓から投げたの」


「それこそ帳尻合わせの嘘ではないか」


「子どもの頃の記憶を、改めて今の私が思い出してみたの。

 余計な付け足しや想像はしていないつもり。

 子どもの自分が見ていた景色に、やっと繋がったってわかった。

 今日の化け物を見て、同じだってわかった。

 わかってるわ。

 貴方からすれば、嘘よね。

 でも、私は思い出したし、信じている話よ。

 ここよ。

 このあたり。

 父さんの頬の皮膚が動いていたの。

 盛り上がって何かが動いていた。

 手もそうよ、手の甲に何かが動いていた。

 父さんは泣いていた。

 神様に許して欲しいと泣いていたの。」


 男は何も言わない。

 多分、嘘つきの憐れな奴だと思っているんだろう。

 でもいいの。

 これが私の真実だもの。


「下流で難民の人達に拾われたの。

 最初は意識も無くて、収容施設で寝たきりだった。

 そこにお祖父ちゃんが迎えに来たの。」


「どうやって見つけたと言っていた?

 それに母親はどうしていたんだ」


「わからない。

 私を迎えに来た時には、お祖父ちゃんと一緒にいたの。

 母さんはずっと父さんと一緒だったけど、砦に入る頃には、喋らなくなっていた。

 私は塔でいつもひとりだった。」


「迎えに来た時に母親は何と言っていた?」


「体中傷だらけで、可哀想だって思ったのを覚えてる。

 お祖父ちゃんが一生懸命、私達を連れて逃げた。

 誰かに見つかって私刑になるんじゃないかって、隠れて逃げた。」


「母親との会話は覚えていないのか?

 お前が川に投げられた事。

 父親の事。

 反乱の事。

 子どものお前に何か言葉があったろう」


 私は思い出そうともう一度、目を閉じた。

 傷だらけのお母さん。

 呼びかける私。

 微笑み。

 遠くぼんやりとした表情。

 とてもそれは悲しくて優しい。


『ふふっ出遅れちゃった。

 お父さんの分まで、お母さんがんばるわ。』


「どうした?」


 真実はわからない。

 母さんの真実は、何だったのだろう?

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