第778話 孤独の岸辺(下)
微睡みは心地よかった。
今日は一日、荒れるらしい。
カーン自身の旅支度は、武器の出来上がりを待つだけのようだ。
後は今日一日、部屋で書類仕事をするそうだ。
手元を少し覗いたが、面倒そうであるとしかわからない。
共通語と暗号と数字。
何処に出すのか、書き上がった物から密封容器に放り込んでいる。
伝令用の筒には複雑な鍵。
無理にこじ開けると中身ごと燃え尽きるそうだ。
伝令は人馬、鳥、そして貴重な水晶通信や鉱石通信と様々だ。
直筆の書面などは、この伝令用の筒、シリンダーに密封して人力で運ぶ事が多いそうだ。
特別な訓練を受けた者が運ぶ。
どんな特別さかはわからないが、物騒な話になりそうで聞かなかった。
サーレルにも聞かないほうが無難だ。
きっと聞きたくない話なら、余計に教えてくれそうだ。
干していた洗濯物をたためば、何もする事がなくなった。
返す品もまとまっているし、持ち物も手回りの品ぐらいだ。
テトを抱えて長椅子に落ち着けば、疲れもあるし瞼がすぐに下がる。
食べ物が腹で落ち着けば、途端にだるくなって眠気がさす。
野宿だなんだと疲れないほうが不思議だったのだ。
獣人の兵士に合わせていては身が持たない。
等と、眠りと覚醒の狭間で、呟きだけが頭を通り過ぎていく。
温かい部屋。
荒れた天気。
動物の体温、鼓動。
誰かの息遣い。
痛みも苦しみも、寒さも遠く。
怖いことは無い。
心地よいだけ。
とても、それは、とても
不意に、涙が出そうになる。
悲しい。
とても悲しいと思った。
この穏やかさが悲しい。
過ぎ去って、過去になってしまうだろう、今が悲しい。
私は、今、とても安らいでいた。
この瞬間にも、小糠雨に蠢く者共がいたとしても。
冷たい湖の只中で、墓石の影に何がいたとしても。
私は温かな場所で惰眠を貪り、安らいでいる。
悲しくて、幸せだ。
確かに幸せはどこにでもあるのだ。
でも、これは感傷に過ぎない。
泣いてはいけない。
テトを抱いて目を閉じる。
何も失うものなどないのだ。
私は何も持っていないのだから。
最初から、何もないのだから。
でも、ちゃんと覚えていたい。
私の好きなもの。
私の好きな時間。
仮初の暖かさ。
私はやっと理解できた。
私を忘れないで。
私が消えても、誰か、私を覚えていて。
私が生きていた事を。
これが、不安、恐れの正体だ。
私が供物としての最後を迎えた時。
私が誰かの過去になるのは、当然だ。
でも、もしかしたらって思うのだ。
私の知る人達の記憶から、私の存在は消えてしまうんじゃないか?
穴から出た後の私は、幻として消えてしまう。
カーンに忘却の呪いがかかったように。
神の試しによって生かされた時間は、すべて巻き戻ってなかった事になる。
還るのだから。
夢のように。
十分にありえるだろう。
それかもう一つの可能性だ。
私の取り分。
声を失った時、わかった。
得れば失う。
これもまた当然だ。
供物として宮の主には魂を捧げる。
グリモアには血肉、人間の懊悩を示し捧げる。
そして彼らが言う、私の取り分。
残りなどあるのか?
声を私は捧げた。
私の取り分は人の五感であろうか?
それだけでは無いはずだ。
対価として切り売りできる部分は、あとどれくらいあるだろう?
きっと私が一番恐れる事を望まれるはずだ。
想像はつく。
皆が忘れるよりも、怖い事。
私が、忘れる事だ。
それは恐ろしいが許しでもあろう。
きっと楽になるだろう。
失ったことさえ忘れ、からっぽになる。
でも、怖い。
当然だ。
死ぬんだもの。
忘れることは、私が死ぬという事だ。
私が抱える気持ちも消えて、大切にしている事も無くしてしまう。
怖い。
眠気が去る。
遠雷に答えはない無い。
身のうちの囁きも沈黙をする。
私は後悔なく、その時を迎える事ができるのだろうか。
喜んで擲つ事ができるのだろうか。
後悔すること無く、救いたいと思えるだろうか。
記憶を失ったとしても、命を失ったとしても、それで良いと思える私でいられるだろうか?
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