第891話 モルソバーンにて 其の七 ⑧

 その肩を叩き、私は振り返る。

 この位置から見えるのは、湯気と黒い影、蟲と柱だ。

 視界は悪く薄暗い。

 何を読み取るとしても、全てが黒い蝿に覆い尽くされているようだった。

 それでも、読み取るべく呪術と同質と思える言葉、紋様を拾い集める。

 すると細かな粉塵の集まりが、大まかな力の線を描いているのが見えた。

 異形の領域が表す多次元構造に、慣れ親しんだ作りが混じっている。

 構造は破壊と創造を繰り返しながらせめぎ合う。

 そのせめぎあいの溝を辿れば良いのではないだろうか?


 私は溝の方向を指さし、カーン達を促した。


 黒い蝿、粉塵、川の流れに身を浸しているかのようだ。

 その黒い流れの中、薄灰色の溝が続く。

 それは夜空を彩る極光のようにも見え、波のように押し引きし、混沌と場を漂っている。


「見えないな」

「俺もだ」

「音はしますね」


 柱から抜け出た蟲が這い進んでいった穴蔵とは別の、天井の低い穴へと入る。

 その通路に蒸気は煙っておらず、視界が利くようになった。

 相変わらず薄暗いが、ほぼ普通の地下通路、モルソバーンの下水道に見えた。

 ただ、上下左右を通る管は、やはり奇妙な具合である。

 金属の配管に見えるが、液体が流れる音が妙に甲高く、先程までの温かさとは真逆の冷気を含んでいた。

 光源は見当たらぬのに、通路だけは白く浮き上がって見える。

 やはり黒い紋様が視界をざらつかせていた。


 グリモアを通して見る世界は、絶えず中空にてせめぎ合い裂け目が生じ続けている。


(幸いにも相手は愚物故に、糧が続かなければ潰えるであろう)


 誰かの含み笑いが耳を擽る。

 それは嘲笑を含んでおり、悪意を感じた。


(酷いことをされたら、恨むのは当然だ。

 ただ、滑稽でね。

 自滅していく姿が、誠に愉快だ)


 誰だ?


(誰でもない。さて、供物の女よ。

 人の身で知覚できる次元にも限界があろう。

 その限界を取り払う事は容易いが、人の身では苦痛以外何物でも無い事だ。

 神の如く輝きの世界を見るにも能わず、己が領分を守るのだ)


(つまり、あまり力を使っちゃ駄目だよって忠告。

 対価以前に、体を悪くしちゃうからって事だよ)


「風だ」


 カーンの呟きが呼んだように、通路には向かい風が吹き始めていた。

 何故かその風の匂いは、馴染み深い夜気を含んでいる。

 大きく深呼吸をすると、そこに僅かな別の匂いが混じっていた。

 金臭い、金属の匂いか。

 通路はうねるようにして傾斜がつき、やはり左に曲がっている。

 元の構造が、きっと左に曲がっているのだろう。

 やがて視界の先に、奇妙な角錐が鎮座していた。


「あれが楔と守護者とやらか?」


 カーンの呟きに、イグナシオとザムが揃うようにして首を傾げた。

 そんな二人を他所に、私を下に下ろすとカーンは首を回した。


「悪い冗談だな」


 角錐の傍には、黒い姿が三体あった。

 頭部はつるりとした兜のような物で覆われ、不動の姿勢で立っている。

 異形とひと目でわかるのだが、なぜかその姿は似ていた。

 写し鏡のように、カーン達にそっくりだった。


「幻覚か」

「さぁな」


 真ん中に立つ異形が、応えるように大太刀を背中から抜き放った。

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