第800話 挿話 黄昏まで遊ぼう ⑩

 神なぞ、いつ救いをくれた?

 心を救わぬ信心など、何の意味があるのだ?

 果たして神なぞいるのか?


 憎しみが大きく痛みを与え、信じる心は消えていく。


 許すまじ、必ず滅ぼしてみせよう。

 この恨みは、絶対に手放すものか。


 そう叫ぶ己が内に、同じく産まれた考えがある。


 ならば信じずとも良いのだ。

 信じられない自分を許すのだ。


 なぜなら、死んではならないからだ。


 生きていたくないと、浄化の時に思った。


 死にたい。


 申し訳ないとも思った。

 手にかけた無辜の人々に申し訳ない。


 信じられず、これまでの生き方を信じられず、逃げるのか?

 死にたい等と、寝言をほざくのか?


 なんと無様で醜い生き方だろうか?

 誰を罵るよりも己が一番、醜いではないか?


 死に逃げず、生きねばならぬ。

 それは最後の人としての一線だ。


 己の醜さを悟ると同時に、ならば、あるがままでいようと思った。


 嫌いな事は嫌いだ。

 憎いものは憎い。

 そして悲しいことは悲しいし、辛いことは辛い。


 取り繕う事は無意味だ。


 自分は人殺しだ。

 自分は愚かで矮小で、嫌なことをされれば仕返しをする人間だ。


 あるがままの自分でいる。


 嫌うこと憎むことに後ろめたさを保たない。

 自分はそういう人間だ。

 神は信じられないし、嘘つきは殴る。

 自分も暴力を当然のように振るう嫌なやつだ。


 狂わずにいるために、素直に生きる。

 狂うとは逃げる事だ。


 人殺しの人生で学んだ生き方だ。

 死んで逃げないための、方法だ。


 正しく生きている者を尊敬をする。

 親切、真心、愛情、誠実さ。

 美しい出来事は、美しいのだと僻み根性を持ち出さすに感じ入る。

 優しさを偽善と疑わずに、素直に称賛をする。

 美しいこと、優しいこと、心根の正しさや人としての徳をもつのなら、それを素直に褒め称える。

 料理が美味しければ、それは作ったものの努力だ。

 生き物が素直になつくのなら、それだけ世話をする者が正直に命を大切にしているからだ。


 真正面から憎むのと同じく、素晴らしいことは素直に頭を垂れるように心がける。

 小難しい事を考えないようにしようとするのは、後悔をしたくないのもある。


 死んで逃げる事は許されない。

 だからこそ、考えすぎて己を縛るのは良くない。

 素直に、正直に。

 短い人生だ。

 せめて最後は後悔なく、死にたいのだ。

 そうしてスヴェンは、心を軽やかにする術を得ていた。


 素直であれ、愚かであれ。


 だからこそ目の前にある、異様で悲しい事にも驚かずにいられた。


「あいも変わらず、お美しい。

 して、どのような用向きで?」


 青白い顔を向けて、彼女はスヴェンに歩み寄った。

 ちょうど建物と建物の隙間、緑の木々の影である。

 他の兵士の影もなく、彼女の姿は木立に紛れて通りからは見えない。

 見えたとしても、かと見逃されるであろう。

 そんな彼女は片手をすっとスヴェンに差し出した。


 小さな革の小箱である。


「自分にでしょうか?」


 その瞳は赤く濁り、背の一部は腐れて骨が突き出ていた。

 腹も一度弾けて裂けたのか、無惨にも赤い肉がこぼれ出ている。

 それでも何故か不思議と彼女は穏やかに見えた。

 面立ちも変わらず、いつも通りに美しく、そして虚ろに笑んでいる。

 喋らないのか、喋れないのか。

 彼女、レンティーヌは、スヴェンを楽しげに見つめる。

 焦点の合わない視線ながら、生前よりもとても楽しげに見えた。

 その小箱を受け取ると、スヴェンは考え込んだ。

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