第481話 孤独の岸辺(中)②

「旦那、これは印だ」


 私は、せめて忘却の呪いが薄れないようにと祈った。


「約束の印。

 還る場所に、迷わないようにつけられた印だ。

 媒介したグリモアが私にある限り消えない。

 旦那の腕に印が出たのは、多分」


 宮の主に知れたから。

 私が何を考えたのか。

 だから、少し加えたのだ。

 弱い心が温い考えに逃げぬように。

 私が逃げぬように、カーンを招き寄せたのだ。


「同調した副作用だと思う。

 私の中の力が、少し染み出した。」


 忘れちゃ駄目だよ。

 私が逃げたら、この人が連れ戻される。


 そういう事だ。

 怖くて心だけでも逃げようとしたら、この人を代わりに闇に隠す。

 明日を望めぬ場所へと導くと、契約を広げた。

 同調して魂の境目を薄れさせた。

 良い意味を探せば、これでカーンにも危険が見える。

 悪い意味ならありすぎて、目の奥が痛くなった。


「こいつがあるとどうなるんだ?

 呪い、なんだろう。

 帰る場所とは、何処だ?

 俺もそこに帰るのか?」


「還るのは私一人だよ、旦那。

 迷子札のようなものだよ。

 旦那には、この印のお陰で、多分、嫌な物が見えるようになったと思う」


「嫌な物?」


「今日、見たような物だ。

 グリモアは死に近しい。

 だから、死人も化け物も、この世には無い物が見えるようになる。」


「お前は、いつも見えるのか?」


 上唇が震えて、うまく笑えなかった。

 普通じゃない事、孤独な事、誰にも言ってはならぬ事。

 自分で選んだから、まだ、大丈夫。

 だから、大丈夫。

 私は頷いた。


 カーンの腕にある紋様は、私の物とは少し違っていた。

 吹き付ける波のような蔦模様が腕に巻き付いている。

 それを未練がましく擦る。

 落ちないかな、私に戻ってこい。


「他にはどうなる?」


「時々、痛む」


「他には?」


 擦る手を、宥めるように握りしめられた。


「後は、わからない。旦那」


「何だ?」


「すまない」


「何故謝る?」


 結局、逃がせなかったから。

 違う、違うはずだ。

 まだ、大丈夫、私は選んだのだから。


「私は」

「うん」

「私は」


 暫く、私達は薪が燃えるのを見ていた。

 炎の芯は目に痛いが、その下の灰が赤く染まるのをじっと見ていた。

 お互いに手を取り合って見ていると、お互いが何を恐れているのかわかった。

 呪いを介さずとも、私達はわかった。

 お互いが、己を恐れているのだ。

 私達は、これほどかけ離れているのに、恐れるのは同じく己自身なのだ。

 そして怖いと思うのは、間違いではないともわかる。

 荒れ狂う風の音を、この世の大きさを思えばわかる。

 どんなに強い男であろうと、身の内に魔を飼う我が身であっても、我々は脆い命しか持ち合わせが無いのだ。


 そして同じように、私は貴方を恐れはしない。

 貴方が私を恐れぬというのなら。

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