第482話 孤独の岸辺(中)③

「他に言う事は無いのか?

 この印は、ボルネフェルトの呪いとやらか?」


 もう、ボルネフェルトはいない。

 そして彼が事の始まりではない。

 悪いのは誰?

 悪い事ってどんな事?

 己を怖がるよりも、本当に怖がるべきは、供物の役目を違える事。


「この印は違いますよ。

 大丈夫。

 これで死ぬ事は無い。

 これは神の愛に同じと祭司長様も仰っておられた。」


「お前は、このままだとどうなる。呪いなんだろう?」


「どうにもなりませんよ。

 印は戒めですからね。

 先程も言いましたでしょう?

 迷子にならぬように。

 ちゃんと還れるように。

 旦那は、見たくない物が見えたり、聞きたくない声が聞こえたりするだけです。」


「何処へ帰る?」

「故郷以外にありますか?」


「なぜ、俺の腕を見て、悲しむんだ?」

「普通じゃなくなるからです」


「俺が普通?」

「普通です」

「俺だぞ?」


 確かに、この男に普通は無い。

 私がやっと自然に笑うと、男も笑った。


「死した人ほどお喋りですよ。

 旦那、これから一人になるのも大変だ。」


 それにカーンは首を傾げた。


「違うと思うぞ。

 死んだからと俺に話しかけてくるものか。」


 立ち上がると、袖を戻す。

 そしてカーンはゆっくりと伸びをした。


「もういいんじゃないか、オリヴィア?」

「何をでしょうか?」


 視線を合わせ、向かい合う。

 似ても似つかぬ者同士なのに、鏡のように同じ気持ちが見えた。


「俺には何も言いたくないか?」

「何を言えば満足するのですか?」


 見つめ合い、再び両手を互いに差し伸べる。


 私達は孤独で、怖がっている。

 確かに今、私達は理解し合えた。

 と、私は思った。

 目の前の人も、私も、同じだ。


 生きていく事は怖い。

 自分が悪いと認める事は怖い。

 弱者の立場であったはずが、いつの間にか他者の人生を刈り取る立場になっていた。

 そんな事は少しも望んでいないのに。

 一欠片の慈悲も持たぬ炎ならば心も痛まぬのに、私達は人間だ。

 未だに、人なのだ。

 自分が雪のように白く、朝陽のように正しくあると信じられるなら、幸せだろうに。

 もちろん、そんな幸せが羨ましい訳では無い。

 それでも誰かを不幸にしたいわけじゃない。


「今日の事をどうお考えか?」

「どれを指してだ?」


「金の記章は見えましたか?」

「見えた。あれは何だ?」

「警告、不穏な事々の原因と思います」

「恨んで化けて出た訳じゃぁないんだな?」


「彼らからは不安を感じました。

 悪意があり、不安だと。

 彼らの船は沈み、悪意がある。

 残された者を心配していました。」


「事故ではないと?」


「沈没の直接の原因を指してはいないでしょう。何か大きな遠因を示したかと。

 記章に記された言葉が、船長の言いたかった事に近いのでしょう」


「ニコル・コルテスの金の記章か」

「名前をご存知で?」


 その時、教会の鐘の音が響いた。

 ニルダヌスが戻ったのか、手伝いの者が鳴らしたのか。


「教会に、戻らないと」

「駄目だ。まだ、話の途中だ。いいな」


 私は渋々と頷いた。

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