第480話 孤独の岸辺(中)

「なんて事だ!」


 私は立ち上がり、その腕に取り縋った。

 表面をまるで泥を落とすように擦る。


「落ち着け」


「これが落ち着いていられるかっ!」


 我を忘れて怒鳴りつけ、相手の顔を見てから、正気に返った。


「お前にある物が俺にあったとして、何がいけないんだ?

 さぁ話してみろ」


 薪がはぜて、炎が大きく上がった。


 ***


 それは供物の印。

 宮の主が供物所有する魂

 生きるは神の娯楽、魂は糧。

 我が魂は供物となり、幾多の罪を見聞す。


 グリモアの知識が囁く。

 供物とは、罪を償う者だ。


 人は弱い生き物だ。

 生きる為に、日々、小さな嘘をつく。

 嘘をつかないで生きていけるほど、強くはないのだ。

 たとえ、それが誰をも傷つけぬことであっても。

 人が生きるとは、何かを奪うことなのだ。

 故に、それだけでは選ばれない。


 供物が償う罪とは?


 知るために生きる。

 無知の罪を知らねば、償う事ができないからだ。

 そして少し触れたのだ。

 死者の言葉を受けて、手がかりを得たのだ。

 答えに。


 供物は、許しを乞うべく、たどり着かねばならぬ。

 ひとりで向かわねばならぬ。

 その償いの岸辺は遠く、血の河に腰まで浸かり、足は屍にとられるだろう。

 故に、望んではならない。

 その岸辺には、ひとりで行かねばならない。

 嘘偽りを廃するとも、既に私は咎人だからだ。


 咎人は、沈黙するべきなのだ。


 何も神と約束したからではない。

 何か一言でも漏らせば、それは諸共他者の命を奪うのだ。

 己が苦しみを減らすために何かを言えば、誰かがその分苦しむのだ。


 証拠に、印は彼の者カーンに浮かんだ。

 私が愚かだった。

 このままでは、供物とともに彼は闇に沈む。

 どうすればいい?

 忘却の呪いは残っている。

 男の厭う嘘偽りを並べるか?

 一言も与えず、さらに遠ざけることができるのか?

 あの時選んだように、恐れて逃げるなと?

 苦しみから目をそらすなと?

 私は..


 ***


 暖炉の前に足置きが置かれる。

 促され私はそれに移った。

 部屋は先程の場所が寝室で、こちら側が書斎らしい。

 床には臙脂の敷物や乾燥した薬草が置かれている。

 石壁には、綴織の壁掛けが下がり、全体的に清潔で落ち着いた部屋に思えた。

 装飾品は無く、長椅子にしても足置きにしても、専用の当て物は実用的だった。


「何故、あの扉には閂が?」

「元々、ここは居住用の部屋じゃなかった。」


 急かせば頑なに口を閉ざすのがわかっているのか、カーンは目先の話題に答えた。

 足置きに座り炎に炙られながら、私はその腕を放せずにいる。

 そして腕をとられたままのカーンは、敷物に座り対面に腰を下ろす。


「この部屋以外に、空いて無くてな。

 寝台を運び込んで体裁を整えた。

 ここは城の上部階だ。

 下の部屋で良いって言ったんだが、出戻りが下層の兵舎に入るのは駄目なんだそうだ。無理やり物置を開けて部屋にしたんだ。」


「軟禁部屋かと思いました。」


「改装ついでに取っ払えばよかったが、頑丈な扉で付け替える必要もないってそのままにしていた。

 俺が居ない間、中を歩き回ると面倒くさい事になると外から閉めた。

 牢屋に押し込めたつもりはなかった。怖かったよな」


「怖くないです」


 会話が終わり、沈黙が降りた。


 黙っていても、災厄は避けてくれる訳もない。

 そう観念するまで時間はかからなかった。

 私は嘘をつかずに真実を避けて話すとした。

 そんな器用な事ができればの話だが。

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