第805話 挿話 陽がのぼるまで(上)④

 不意に夜風の音が消えた。

 寝息も消え、夜が、大気が動きを止めてしまったように、海鳴りまでもが消える。


 私は瞬きをしながら、また、思った。


 ほら、いつもどおりよ。

 逃れる事などできないの。


 壁の中、何かが這い回るような気配。


 違うわ。

 何がいつもどおりなの?

 何に、私は怯えているの?


 カラリ


 と、音が聞こえた。

 息を潜めた夜に、音がした。

 軽い木の板が石畳に落ちたような音だ。


 カラカラカラカラ


 何だろう?


 外に置き忘れた木桶?


 気になる。

 近くだ。

 裏ではなく、表の通りの方だ。


 駄目よ。

 気がついちゃ駄目。


「いやよ、確かめるの」


 静かに起き上がると、巫女様や母さんを起こさないように、そっと事務所を出た。

 集会場の暖炉の熾火が部屋を赤く染めている。

 雑魚寝する商会の人達の向こう、お祖父ちゃんが片膝を立てて目を閉じていた。


 お祖父ちゃんが気が付かないのだから、気の所為だったのよ。

 私はついでに手洗いに行くことにした。

 別に行かなくてもいいんだけど、私は証明したかった。


 何を?

 何だろう。


 裏手の外側にあるので、まずは表通りに面した窓から外を見ようと思った。

 誰かを起こす?

 それも嫌だ。

 だって、何も無いんだから、怖いからついて来てなんて言えない。


 濁った窓硝子、よく見えないけど人影ぐらいはわかるだろう。

 やっぱり、少し、怖い。

 薄暗い景色に、木々と石畳、家々の壁。


 ほら、何も無いわ。


 掃除をされて、あの焼かれた場所もきれいだ。

 物も落ちてない。

 不審者もいない。


 よかった。

 手洗いに行って、それで終わり。

 安堵して振り返る。


 ...


 悲鳴は出なかった。


 奥の小部屋。

 扉の隙間から、赤い瞳が見える。

 黄色い眼球が二つ。

 眼はぐりぐりと動いて、部屋全体を見ていた。

 暗闇に浮かび上がる眼は、航海士のものなのか?


 違う。


 彼の顔は、潰されていた。

 可哀想な人ではない。


 何か泡の弾けるような音。

 ぴちぴちと、何かが弾けて広がる。

 動けずに見ていると、扉の隙間から何かが壁に張り付き伸びていくのが見えた。


 植物の根みたい。


 赤い植物の根が、蜘蛛の巣のように壁に張り付き広がっていく。


『オマエ、オマエ、タベル』


 耳元で声がする。


『ジャマ、サレタ

 ダカラ、カワリ、イッパイ、イッパイ』


 私の中に棲む何かじゃない。

 悲鳴は勝手に口から漏れた。

 弱虫の私。

 そこからの記憶は、細切れ。

 覚えてるのに、よくわからない。


 皆が起きて


 壁を這うモノに気がついて


 奥からソレが這い出してきた。


 赤黒いさなぎ


 血みどろのナニカ


 蛹には口があって、滑稽なの


 側にいた人、近くの商会の人を


 食べちゃった


 猫みたいに


 黄色い眼


 根に生えてる


 剥き出しの眼球


 嫌な臭い


 腐った臭い


 悲鳴

 悲鳴

 悲鳴


 誰かが灯りをつけた


 集会所の表に押し出される。

 転がり出る時、商会の人が巫女様を担いだ。


 お祖父ちゃんは?

 お祖父ちゃん、おかあさん


 お祖父ちゃんは剣をふるって、伸びてくる根を払う。

 皆、表の木の所へ下がって


 悲鳴

 街中から、悲鳴、声


 いつもどおりよ。

 あの時と、同じ。


 父さんと一緒にいた、あの日と同じ。

 小さな私。

 ちっちゃな子供だった私。

 世の中の事なんて、何も知らなかった私。

 やっと雛の殻がとれた、赤ちゃんみたいな私。


 理解できなかったのね。


 怖いことも。

 悪いことも。


 でも、覚えているんだわ。

 思い出せないのに、覚えているの。

 だから、わかるの。

 いつもどおりねって。

 

 逃げられないねって。

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