第804話 挿話 陽がのぼるまで(上)③
いつもどおりよ。
気の所為。
そうでしょ、過去は忘れてしまった。
もう霞がかかって見えないの。
ずっと監視を受けてきたから、過敏になっているだけ。
少し、私、前みたいに、おかしい、のかな。
やだな。
***
何も見つけられなかった。
何も起きなかった。
夕方になり、食事を終えると早々に休むことにした。
たぶん、怖い事を見たから、ちょっと変なだけ。
事務所の休憩室には、長椅子が数個仕舞われている。
それを引っ張り出して寝台の代わりに使っている。
病人に利用した簡易寝台は遠慮した。
正直に言えば、怖くて使えなかった。
母さんと私、巫女様は事務所奥で休む。
お爺ちゃんと商会の人たちは、広くなった集会所の大部屋で雑魚寝。
夜は商会の人が怪我人の様子を見てくれる。
これだけ人がいれば、昼間の事を思い出しても怖くない。
そう、怖くないわ。
夜がふけると風が強くなる。
集会所が海辺にあるから、波音もすぐ側に聞こえて。
まるで海の中に漂っているような気持ちになる。
城塞とは違って、何だか地面も揺れているような気がした。
そうなるとあらゆる音が気になってしまう。
建物の軋み、海風、波音。
眠気は去り、火の気も抑えられて肌寒い。
そうすると昼間の事が頭に浮かぶ。
私を知っている?
赤い瞳は、私を知っていると言った。
妄想、嘘よ。
そう否定したら、わかった。
私は薄暗い部屋の中で目を見開く。
それが本当であれ、幻であれ、私はいつもどおりと思った。
何が?
注意を払え、考えずに流す事柄ではない。
いつ?
何時の頃を思い描いた?
いつもどおりとは、何を物差しにしたの?
赤い瞳は、私を知っていると言った。
あれが妄想なら、私自身が言った事になるわ。
私は、何を知っているの?
子供の頃の私を知っている。
当たり前だわ、自分の事だもの。
過去が朧気なのは、覚えていたくなかったから。
思い出せないなら、いらない記憶なのよ、多分、その、はず。
仲のよかった友達の事。
顔は覚えているけれど、声は思い出せなくなっている。
遊んだ記憶はある。
けれど何を語り合ったのか、彼女のお母さんの事は覚えていない。
いつも迎えにくるのはお兄さんだった。
うん、覚えてる。
近所の人、お祭りの時のこと、覚えている。
けれど、近所の人の顔がぼやけてる。
入っちゃ駄目って、畑でおじさんに怒られたの、それから。
お隣の庭に咲いていた白粉花は覚えている。
街、私が産まれた街。
あぁ霞がかかってる。
陽射し、匂い、木立。
覚えていたいこと、忘れていたいこと。
辛いことで上書きされて、父さんや母さんとの暮らしは覚えていないの。
朧げで、断片ばかり。
朝焼け、前庭の小さな畑。
お気に入りの靴。
親戚のおばさん、おじさん。
たくさんの従兄弟に、それから。
嬉しかった気持ち。
友達と遊んだ記憶。
楽しかった気持ち。
誕生日にお祖父ちゃんとお祖母ちゃんに会いに行った。
それから...
反乱の事。
疫病の事。
手を引かれて逃げている記憶。
それは母さんだったり、お祖父ちゃんだったり、それから色々な大人の人だった。
子どもの私を何とか生かそうと、皆、一生懸命、手を引いてくれた。
そうだ。
怒りや憎しみを向けられた日々が辛くて、曖昧にしていたけれど。
それは怖い記憶ではない。
苦しい記憶だ。
苦しくて悲しいと名をつけた記憶だ。
では、いつもどおりって、何?
震えるような恐ろしいいつもの記憶って、何?
『オマエ、コドモ、マド、オチタ
ミタ、オチタ
オトコ、ナイテ、ワラウ、ナイテ、ワラ』
あの頃の私は、小さな子供だった。
私は、窓から落ちた。
落ちながら、見たの?
彼は泣いていた。
泣いて笑う。
笑いながら泣いていた。
知らない。
..何も覚えていないわ。
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