第783話 孤独の岸辺(下)⑥
酷い、話だ。
「あの男は未亡人の屋敷に押しかけた。
彼女と子供、家屋敷も何もかも売ってしまおうとな。
あぁ大丈夫だ。
彼女は愚かだったが、己の子供を愛していた。
如何に男の為にと愚かにも金を渡していたとしてもだ。
子どもの為にと屋敷や土地は残していたんだ。
男に渡していたのは、彼女の金だった。
そこまで馬鹿じゃぁなくて幸いだった。
だから彼女の息子も母親の振る舞いに目を瞑っていた。
彼女だって人間だとね。
だが、その相手の男は、彼女を人間だとは思っていなかった。
女は奴隷だ、家畜みたいなものだ。
綺麗事を並べていれば、馬鹿だから騙されるとね。
呆れるよな。
誰が素直に応じると思う。
思うのはクズ野郎だけだ。
自分が指一本振れば、女はすべて云うことを聞く?
そんな女なら、疾うの昔に奴隷だったろう。」
彼は椅子に深く腰掛け、私の顔を見つめた。
「家に押しかけ、頭のオカシイ事を言い出す男に、彼女はもちろん抵抗した。
愛情から金を渡すという愚かな選択をした。
だが、彼女は正気だった。
愛で目が曇ったとしても、子供を売り飛ばせと言われて頷くようでは母親じゃない。
幸いな事に、彼女は母親だった。
きっと愛情もそこでやっと終わりを見たんだろう。
全てを寄越せ、お前も金になれという男に、彼女は抵抗した。
南部女としては小柄な女性だった。
力では抵抗できない。
大声をあげて騒いだ。
彼女の悲鳴を聞いた息子は、奴に掴みかかった。
軽量に近い中量の男だ。
子どもとは言え準重量の子供だ、押さえ込めると思ったんだろう。
だが、相手は狂人だ。
跳ね飛ばされて動けなくなった。
俺は、ちょうどそいつと狩りから戻った所だった。
慌てて彼女と奴を引き剥がそうと駆け寄った。
彼女は、俺も自分の息子のように世話をしてくれていたんだ。」
それで、どうなったんです?
「そんな顔するんじゃねぇよ。
これは昔話だ。
俺はここにいるし、跳ね飛ばされたガキは元気だし、彼女は助かった。」
私があからさまにホッとすると、カーンは笑った。
「俺は奴を引き剥がした。
それまでに殴られていたんだろう朦朧としている彼女を、息子の方へと押し出した。
その間、半身背中を向けたからな、奴は俺の首を絞めた。
俺の首を力いっぱいにな。
骨がずれる感じがしたんで、ヤベェと思った。
狂人の力は侮れねぇもんだ。
力いっぱい口泡を飛ばして何か怒鳴っていたな。
元から正気じゃなかったが、最後の人間らしさが消えちまったんだろうさ。
本気で俺を殺すつもりだった。
俺が不幸の原因だってな。
俺も子供だったから、大人の中量獣種の腕力に真っ向から刃向かうのは骨が折れた。
眼の前が真っ赤になって、息ができねぇ。
擬態を解く暇もねぇ」
それで?
カーンは少し困ったように笑みのまま、一旦、口を閉じた。
それから改めて、ゆっくりとした口調で続けた。
「狩りから俺は戻ったばかりだった、って言ったろ。
俺は弓を背に、今、捌こうと鳥を片手にしていた。
その鳥を床に投げ捨て、幼馴染のおっかさんを引き剥がした。
じゃぁもう片方の手はどうしたよ?
野郎は俺の首を両手で締め上げている、俺の片手には」
獲物を捌こうとしていたんですよね。
「ちょっとばかりデカイ鳥でな。
骨を断つのに小型の手斧を握りしめていた。」
私は天を仰いだ。
「後悔したよ。
もっと早く殺っておけば良かったってよ。
もう笑っちまったぜ。
あぁ寝付きが悪くなるような話は終いだ。」
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