第180話 信じずとも

 思わず叫ぶ私を他所に、エリは杯を格子窓に投げつけた。

 派手な音の割に、杯は割れなかった。

 だが、液体は優美な格子を濡らし、酷い有様である。

 窓と言っても室内の空気を逃す程度の隙間だ。

 飾りの意味合いの物で、物を捨てるには不都合だった。

 赤い文字は、ぬるりと滴り薄れていく。

 どうやら乾けば消えるようだ。

 そこまで呆然と眺めていたが、慌てて私は膝をついた。


「お許しください。

 子供の事ゆえ、どうかお慈悲を」


 自分でも意外なほど、大きな声だった。

 むしろ私の喚き声で、不興買う事を忘れていた。

 だが、誰も動かない。

 顔色を伺うこともできずぬかづく。

 エリだけが、投げ捨てた杯を拾うと小卓へと戻した。


「何が気に入らなかったんでしょうねぇ」


 暫くの沈黙の後、サーレルは筆を置き私達の側へ来た。


「こんなに美味しそうなのに」


 そして徐に杯を掴んだ。

 私が手をつけなかったお茶の杯だ。

 それをゆっくりと掴み、ためめつすがめつ眺めた。

 そうしてから口元へ、


「いけません」


 今度は私が、サーレルの手から杯を叩き落としていた。

 そうしてから、はっとする。

 考えてみれば、毒に強い獣人で薬を扱うと言っていたではないか。

 飲む振りでかまをかけたのだ。

 さもなければ、私が叩いた程度で杯を落としたりはしない。

 再びの沈黙は、痛みを感じるほどだった。


そなたらは、何者ぞ」


 侯の青白い顔が、興奮に染まっている。

 今まで横になって浅い息を吐いていたのに、震えながら起き上がった。

 それをラースが慌てて支える。

 私は再び膝をつき、こうべをたれた。

 エリが側に来て、私の上着の端を掴む。


「なぜ、お茶を捨てたのか?」


 震える息で、侯爵はエリに問いかけた。

 エリが私にしがみつく。


「怒ってはいない。

 理由だ。

 それとも単に、この城の物を口にして、我のように病気になるのが怖いか?」


 私達は小さくなって項垂うなだれた。

 サーレルは、転がり空になった杯を拾うと匂いを嗅いだ。


「顔をあげるのだ」


 侯爵の命令で顔をあげる。


「疑っているのではない。正直に何を思ってのことか教えてほしいのだ。

 怖いからか?」

「違うでしょう。怖いだけなら、私の杯を叩き落とす必要はない。

 ただ、確信があった。

 どうしてでしょう?

 私の鼻でもわからない。

 お茶の匂いだけですね。無臭の毒でしょうか」

「この水は如何いかがか?」


 侯爵は上掛けをまくりあげ、身を乗り出し指さした。

 指の先、枕元に水差しがある。

 美しく左右対称の絵柄の素焼きの物だ。

 私とエリは手を繋ぎ、すなおにそちらを見た。


「飲んでもさわりはないか?」


 問われれば、確認せねばならない。

 私達は恐る恐る、水差しを確認する。

 といっても、見るだけだ。

 エリはにらみ、私は目をすがめた

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る