第863話 モルソバーンにて 其の四 ④

 ふっと、可笑しみが湧く。


 己が笑える。

 選んだのは私だ。

 選んだのだ。

 ならば、全うせねば惨めだ。


 モルソバーンを覆う雨雲を見上げる。

 そこには螺旋を描く呪術のきざはしがある。

 青白い閃光を奔らせ、それは雲をかき混ぜ明滅を繰り返す。


 時折、白い輝きが波状となって広がり、闇の彼方へ消えていく。

 皆の魂の扉を壊す、戦槌だ。


『全部、見えるようになるのか?』


(さぁ、その人間の魂の位階にもよるだろうね。

 でも、多くの者に穢らわしい姿は見えるようになるさ。

 そして己が偽りと穢も見えるだろう。

 恐れ慄き怯えるといいね。

 神は背にあり、己がまなこに宿るのさ。

 とてもいいねぇ、けど)


 なら、いいかな。


 助けてって声が届いて、皆で手をとりあえるといいな。

 そうしたら、こぼれ落ちた人も救える。

 怖いこと、本当に怖いことがなくなるといいな。

 この世から人の輪から落ちた人も、戻れるといい。


 だから、もう、諦めるよ。

 生きていたいなんて、思わない。

 グリモアの悪い部分も受け入れるよ。

 愚かな事は、あきらめる。

 そうだね。

 還るだけじゃないか。

 怖くても、還るだけだ。


 そうだ、もっと大きく広く、力を届けるんだ。


 そうだね。

 あきらめよう。

 私の家族、私の、ほしい場所。

 愚かな望みを手放したら、心置きなく還れるかもしれない。

 だから


(あまり広げると、君、死ぬよ)


 対価には、たりない。

 感傷や憐憫のつもりはないんだ。


(わかっているよ、君はいつも本気だ)


 ここで邪悪を見抜けるよう、偽りを剥ぎ取らねばならない。

 私ごときの命では足りないのはわかっている。

 だが、供物としては正しい行いだろう?


(..違うね。今じゃないんだよ、オリヴィア)


 違う?


(神が試すは、供物ではない。

 君の献身は既に届いているのさ。)


 なぜ?


(わからないかい?

 君の偽善によって、ひとつの理は壊れた。

 だとしてもだ。

 先にも言ったように、それを神は許すだろう。

 君の本心は、きちんと神に届いているのさ。

 本当の気持ち、優しい小さな女の子の願いは届いている。

 だから、神の秤は傾かないのさ。


 だって、これは救済だ。

 誰かの大罪に対する救済だ。

 グリモアの魂達が証言しよう。

 神に向かって大声で証言するよ。

 神だってわかっている。

 この間違いは、君の過ちか?


 答えは、否だ。


 この理を放棄させた遠因を君は知らないだろう。

 だが、我々は知っている。

 君が知らない答えだ。


 だからこそ、僕はここで不満を表明するんだ。


 君は僕とは違った答えを出したんだ。

 つまらない!

 つまらないなぁ。


 オリヴィア、間違っていない。

 僕と違って、君はきちんと選んだんだよ。


 暴力によって失われる命を前に、憎しみを選ばなかった。

 己の明日をあきらめた。

 それも見知らぬ者共の、くだらない過ちの肩代わりをしたんだ!

 わからないだろうね。

 自覚はないんだから。)


 守るべき約束を破った事はわかっているよ。


(違うよ、破られる前提の約束だ。

 誰が手をつけるか、誰が盗み食いをしたかわかるように仕掛けた罠だ。

 食べもしない料理の代金を、君が払う必要がないって事だよ。

 そもそも毒入りの餌に、食事代は必要がないしね。)

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