第675話 挿話 兵(つわもの)よ、剣を掲げよ盾を押せ (下)前⑪

「そうそう、皆も聞いて下さい。

 サックハイム殿もです。」


 再びいらえが大門からあり、柵の巻き上げが始まった。

 その雑音の中で、男は笑顔で宣う。


「シェルバン領地の食物の安全性は確認できていません。

 ですので、水でさえも口にしてはなりません。

 これを忘れないでください。それから」

「まだあるのか?」


 それにサーレルは、イグナシオと続く仲間を見回し、困惑するサックハイムに笑顔を振りまく。

 白々しい口元だけの笑顔だ。


「私達は部外者です。

 とても楽しい事を目にしても、何も反応を示しては駄目ですよ」

「どういう事だ?」

「ふふっ」

「何だ、もう通れるぞ」

「覚えていますか?」

「何をだ」

「ボフダンはとても良い領地でした。

 心配りも行き届いた饗しに、素晴らし産物。

 再び訪れたいと、私も個人的に思っています。

 魚介類の料理もまだまだ食べ尽くしていませんしね。

 あぁ、そういえば..」


 意味の繋がらぬ雑談を聞き流し、イグナシオは無言で歩を進めた。


「ここを通過して今日で何日目でしたか?」


 ***


 一歩、関に踏みいれて気がつく。

 イグナシオ達は鼻を片手で押さえた。


 臭う。


 獣脂が燃える臭いと腐敗臭だ。

 生臭く泥の臭いもする。


「おい、何のにおいだ?

 この間、出た化け物を、まだ、焼いているのか?」


 獣人など珍しい事もあり、覚えていた兵士が答えた。


「いや、燃え尽きたよ。

 残りも外に埋めた。

 中央の水場も埋めたよ。

 流石にな。

 代わりに別の場所を掘り抜いたんだが、少しにおうんだよ。」

「大丈夫なのか?」

「今までより浅い、別の層をな。

 わかってるよ、まぁ様子見だ。

 試し掘りで細い穴だ。

 暫く汲み上げて様子を見ている。」

「難儀な事だな」

「あぁ」


 お決まりの改めも、ボフダン側からの同行者の手形を見るだけだ。

 今回は手早く終わらせたいのか、荒立てる態度もとらずに言葉さえ返してくる。

 その分、彼らシェルバンの兵士達の顔色が非常に悪い事も見て取れた。


「それで飲水はどうしているんですか?」


 白々しいサーレルの問いかけに、書類に判を押していた男が答えた。

 敵意をあらわにする労力の代わりに、関役人も世間話に加わる。


「砦奥の古い掘り抜き井戸を使ってるよ。

 昔からのだ。」

「そちらも自噴水なんですか?」

「一箇所抜けてりゃ圧力も減るから、そうそうどこの井戸も吹き上げてたら使えねぇだろ」

「確かに」


 書類に目を通す関役人。

 会話が切れて、無言の相方が体を揺らす。

 そわそわと揺れながら、楽しげに辺りを見回している。

 子供のような、その仕草。

 サックハイムと兵士が型通りのやり取りをし、荷駄への質問を仲間の兵士が答える。


 フッっと誰かが笑った。

 誰か?

 傍らの男の顔を見る。


 イグナシオは、あまり世の複雑な出来事に興味がない。

 あえて汲み取らないし深く考えない。

 その態度を変えるつもりもないし、罪悪感もない。

 だが、この時ばかりは違った。

 一瞬にして、ここ数日、この男が吐いた言葉が繋がりあう。



 この任務の間、私と貴方は同じ事、物を見てきました。

 見た、事柄だけで十分なんです。



「体調の変化は無いか?」

「いや、特に。どうしてだ」


 兵士の否定に、イグナシオはもう、何も言わなかった。

 順路に沿って進む。


「少しお願いがあるのですが。

 この水筒の分だけ、水を汲みたいんです。

 関の中に入るのはご迷惑でしょうから、誰か代わりに汲んでいただけないでしょうか?」


 行きとは逆に、サーレルは丁寧にシェルバンの兵士に頼んだ。

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