第759話 それが愛となる日 ⑦

 どんよりとした眠りから覚める。

 少し寒かった。

 石の壁、天井の染み、なんだか人の顔みたい。

 消毒のにおい。

 起き出して布団をたたむ。

 枕元の飴の袋を手に取る。

 蜂蜜のと薄荷。

 色違いの小袋、どこにしまおうかな。

 片手に持ってゆっくりと寝台から降りる。

 痛みは微か。

 深い事柄は考えない。

 どこまで無理が効くのか、この足。

 治りかけに、また駄目にしたくないな。

 ぬぬっと力を分散して歩く。

 なんだかお婆さんになったみたいだ。

 そういえば、手のひらの刃物傷も痛いや。

 手首も痛い。


 痛くないところ、うん、顔もちょっとぴりぴりしてる。

 吐いた時かな、どこかに擦れたのか?


 少し、いや、とんでもなく自分は滑稽だと思う。


 生きているのだ。

 生きているからこそ、すべてを大切に味わうべきだ。

 痛みも苦しみも、そして小さな喜びもだ。

 何もかも悲観的に考えてばかりではいけない。


 グリモアの悪霊でさえも、言葉をかけてくるんだ。

 馬鹿な子だと。

 陰気に下を向いていたら駄目だ。


 迎えは来ていない。

 個室には誰もいない。

 一人だ。

 どうしようかな。


 髪をなおすと個室の扉を開く。

 と、そこには思いもかけぬ姿があった。


 小山のような姿、少し言葉がつまるような話し方のオービスだ。

 スヴェンはどうしたのだろう?

 当然のように、私は二人がいつも一緒のような気がしていた。

 と、何故か彼もまた、当然のように何も喋れない私の意を汲み取る。


「スヴェン、は、仕事だ」


 大きな体に不似合いの、小さな言葉で彼は言う。

 きっと私を驚かせたくないのだろう。

 ちょっと屈んで私の方を見やる。


「今日は、お前さんの、支度、を、しにむかう」


 ゆっくりと告げるとニヤリと笑った。

 正直に言うと、怖い。

 もちろん、それは外見の事で物腰は別だ。

 ましてや、喋れぬ私に気を使っているのだろう、動作すべてがゆっくりだ。

 猛獣が小動物を持て余して何とか殺さないように加減しているという感じだ。

 だが、カーンの言うところのオービスは、階級的には貴族であり、私のような庶民とはかけ離れた存在だ。

 そして教養十分にして人品もよろしいとの事。

 確かに獅子のような顔つきも、そう思えば風格が..いや、嘘はよそう。

 山賊の親玉にしかみえない。

 その辺の破落戸なら、ひと睨みで逃げ出すだろう凶相と大きさだ。

 けれど、実に穏やかな気遣いは確かに伝わった。

 共通語が不自由なのは南領の東の高位貴族に多いともカーンは言っていたか。

 身分は相当高いのだろう、山賊みたいなのに。

 と、混乱して失礼な事を考えていると、彼は大きな手をすっと差し出す。

 すっと差し出された手を一瞬凝視してから気がつく。

 あぁまったく、なんと紳士であろうか。

 実際、こんな扱いをされた事は初めてだ。

 自分がどこぞのやんごとない身分か、巫女頭様のような尊いお方になったような扱いだ。

 うわぁと口が開く。

 そして反射的にポンと手を乗せる。

 猫や犬と同じ反射的な反応だった。

 あれ、なんだか私、失礼だな。


「ここを、引き払う。

 旅装を整える。

 何か言いたかったら、俺の、手にな。」


 ゆっくりと手を引かれ、見上げると笑顔。

 手を強く握るなり、引くなりして伝えれば良いと笑う。


 なんとまぁ。


 村の婆様のような言葉が浮かぶ。

 人は不思議だ。

 見た目だけではわからない。

 恐ろしい相手も、殻の中身はこのように穏やかな実が詰まっているのだ。

 そしてきっとこの恐ろしげな風貌の男からは、真逆の春のような温みが流れる。


 なんとまぁ。


 そんな私の間抜けな顔を見て、オービスは眉を下げた。

 きっと私が怯えたと思ったのだろう。

 私は慌てて、その手を握りしめた。

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