第639話 神の目 ③

 青く高い空に、南から雲が流れてくる。

 入道雲を見上げていると、水辺で遊ぶ少女達の歓声が聞こえてきた。

 海辺も良いものだが、夏は、この睡蓮の館、湖沼の水辺や森で遊ぶ方が涼しい。

 美しい森の木々。

 深い深い森の色。

 狩猟にて賑わう氏族の者達。

 使用人達も晴れ晴れと愉しげだ。


 胸が詰まる。


 幸せだ。

 何も変わりはしないのに。

 今、私は幸せだとわかった。

 何も、変わっていないのに。

 失くしたものを数えて、苦しみを探すように生きてきたのに。


 今、私は幸せだったと気がついた。


 不要な者として生きてきた。

 息を殺して、諦めながら生きてきた。

 けれど、素直に両手を差し出してみれば、幸せがつかめた。


 私は、優しさを知らぬ者であった。

 満足を知らぬ者であった。

 恵まれた者であり、哀れな者であった。


 事実、私は罪人である。


 認める事ができた。

 長い間、恐ろしい秘密を抱えて生きてきた。

 己を守る為に、耳を塞ぎ目を閉じて。


 だから、私の生きる時間は、すべて苦しみばかりだと思っていた。

 天罰なんだと。

 不自由な体。

 幾度も幾度も命を繋ぐ治療を続け、最後にたどり着いた場所。

 幸せになれるわけもないと思っていた。


 情けない。


 愚かであるのは、私。

 皆は違う。


 疑う私は愚かで、与えられる憐れみは優しさで。

 与えられる事、心を素直に受け取る事。

 怯えながらも、そうして手を差し出せば痛くなかった。


 血の繋がりなど無くともよかったのだ。

 幻だとしても、幸せだと思えるのなら、それでいいのだ。


 私は、幸せになってはならない。

 これは変わらない事実だ。

 でも、私の好きな人たちの幸せを願ってもいいのだ。

 私も願っていいのだ。


 幸せになってはならない。

 けれど、もうずっと前から幸せだったのだ。


 日々の会話、食卓を囲む顔ぶれ。

 喧嘩をする、我儘を言い合い、悪口も言う。

 仲直り、笑いあい、それから。


 今日あった事、明日への期待。

 明日。


 皆の幸せ。

 私の幸せ。

 皆が幸せなら、私も嬉しい。

 罪人の私。

 これは贖罪であり、私の願い。


「私の可愛い人、今日は暑いから一緒にいるよ。

 炎天下で獣を追い回すほど、若くないからね。

 喉は乾いていないかい?」


 貴方はいつも、微笑みながら泣きそうな顔をする。

 いつも不遜な態度なのに、私が弱ると泣き虫になる。


「ありがとう、大丈夫よ。

 とても気持ちがいい風ね。

 ほら、私は大丈夫だから、気にしないで皆と狩りに行ってらっしゃいな」

「皆には秘密なんだが」

「はい?」

「私は寂しいと生きていけないんだ」

「まぁ、デフロットに教えてあげなくてわ」

「意地悪しないでくれ、君の側にいたいんだ」

「目を放しても死にませんわ。大丈夫」

「ニコル」

「貴方の秘密を教えてもらったから、私もひとつ教えてあげるわ」

「どんな事だい?」

「ミカエル・ドミニコが手掛けた彫刻、彫像、絵画以外の作品には、必ず私の紋章が刻まれていますの。今度、王都で作品を見かけたら、探してみてくださいましね」

「..彼はちょっと病気だと思うのだが」

「偉大な芸術家って、ちょっと変わってるものよ。

 だから、覚えておいてね。

 彼が手掛けた作品には、必ず私の紋章が刻まれていますの。」

「熱烈な君の信奉者たる彼の芸術家殿の作品には、蔓薔薇の紋章が入っているんだね」

「そうよ。もし、紋章がなかったら、それはって事よ」


 覚えておいてね。

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