第692話 帰路にて ④
その晩は、何も起こらなかった。
ただ、公爵は結局天幕には入らなかった。
火の側で暖をとり、ずっと湖を見ていた。
私は猫と眠り、夢は見なかった。
***
翌朝は、やはり風が強かった。
南風だ。
冬の南風、海のある方向から吹き付ける風だ。
もしかしたら、嵐が来るのかな。
この辺りの気候はわからない。
故郷の冬ならば、北から吹き下ろす風と共に嵐がやってくる。
命を吹き消す北風と神威を纏う紫電の冬だ。
東マレイラの風は、重い。
不安、予感、戸惑い。
天気の事を考えていたら、テトが言う。
(冬のかぜはね
あきの子、よわい子、さらっていくの
やぁよねぇ
だから、いっしょにいなきゃだよ
いっしょいっしょ、ぎゅうぎゅう)
ぎゅうぎゅうと呟きながら、抱っこをせがむ。
なかなかに重量級。
この猫が、姫のテトなのか、テトの子孫なのかは、わからない。
わからないけれど、それは姫の不思議と同じで、わからなくてもいいのだ。
テトが姫を愛する気持ちは残り、友誼を結ぶ気持ちは伝わり、私は温かい命を抱きしめる。
わからなくても、かわらないのだ。
秋生まれの弱い個体は、この湿った風で命をとられるんだね。
じゃぁ、この風に負けなかった子供は、長生きだ。
念話にテトが鳴く。
普通じゃない猫は、私の言葉に応え、カーンを罵る。
家猫すべてが喋りだしたら、人間は猫を飼うのを止めるかも知れない。
いや、喜ぶかな?
まぁカーンは飼わないだろう。
なにしろ語彙が少ない癖に、カーンに対するテトの発言は実に辛辣だ。
姫様のとろこで覚えないだろう、罵倒の数々はどこで仕入れたのやら。
まぁ子供が喧嘩する時の、なんとも言えない悪口ばかりであるが。
きちゃない、くさい、あほ、まぬけ、おばかっち〜
猫の鳴き声に重なる子供の声が、可愛らしくて可愛くない言葉を吐き散らす。
また、それだからこそ、日頃もっと鋭く汚い言葉で罵られても平気な男の額に、青筋がでるのだが。
もちろん女性は別だ。
ご飯をくれて、撫でてくれる女性が大好きらしい。
ちょっと心配だ。
世の中には、怖い女性もいるし、ご飯をくれる男性もいる。
隊の炊事担当は男性だ。
強面だが、実に細やかで料理上手なお人である。
えっ?
美味しいご飯をくれるなら噛まない?
調子いいなぁ。
焚き火の側で、公爵とカーンが朝食をとりながら、話し込んでいる。
殆ど寝ていない公爵の顔色が、少し悪い。
ただ本人曰く、これ以上の睡眠は必要ないという。
それが冗談だったとしても、気持ちはわかる。
私なら当分、横になるのも目を閉じるのも怖い。
「食事が終わり次第、出発だ。準備しておけよオリヴィア。
温かくして水分だ。
まだ、顔色がよくねぇ。
早いところ城塞に戻って、エンリケに診てもらうからな。
嫌そうな顔するんじゃねぇ。
設備の整った場所で、きちんと中身もしらべねぇと駄目だからな」
大丈夫なんですが。
ご飯も美味しくいただきましたが。
ほら、今日はふらついていませんよ。
「目の下がまっくろで死人みてぇな面してんぞ、馬鹿が」
何故かそのまま、お説教となる。
朝のご挨拶を公爵にしようとしたら、これだ。
やぶ蛇だった。
礼儀を無視して、天幕を畳む手伝いをしていればよかった。
「手伝い?冗談じゃねぇ。
おい、誰か掛物でこいつを巻いとけ。
ついでに、まだ、何か食えそうなら」
これ以上は食べられませんよ!
私の体調に関してのカーンの発言には、何故かテトは反論しなかった。
あいの手は何故か
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