第477話 孤独の岸辺(上)③

 取り縋る扉の閂が引き抜かれた。

 薄い灯りの向こうから、不機嫌な男が見下ろす。


「俺が怖いんだろ」


 苛立たしげに、男は続けた。


「だから何も言わない、言えない、か?」


 私の両肩を握り揺する。


「オリヴィア、もう何も隠す必要は無いだろう?」


 隠している?

 そうだ嘘をついている。

 だから?

 怖がっているのは、私じゃない。

 言葉を拒絶したのは、貴方の方じゃないか?

 違う、わかってる、わかってるさ。

 貴方が知りたいのは失われた記憶の方だ。

 それでも、理不尽な不満が心にわく。


「駄目だと言った。

 何も言うなと言った!

 聞きたくないと言ったのは、旦那の方だ!」


 責める言葉がもれて、自分が嫌になる。

 拒んだのは貴方だと、先に拒絶した私が言っては駄目じゃないか。

 後悔しても、失言は取り消せない。

 それにカーンは何かを言いかけた。

 けれど言葉は出ずに、その口は閉じる。

 代わりに、決まりの悪そうな表情を浮かべた。


「怖いと言ったのは、私が意気地なしだからだ。

 当然の批難が怖かった。

 わかっています。

 失言でした、旦那。

 死人に近しい者は穢だ。厭うのはあたりまえだ..」


「ちげぇよ、なんだ、蛙みたいに口を真横に引き結んで。

 怒るんじゃねぇよ、ほら」


「怒ってません!

 ..旦那は間違っていない。

 だって、私は普通じゃない。

 普通じゃない事に巻き込んだ。

 今日だって、見えてしまった。

 現実には見えない事を、認めなくちゃならない。

 誰だって怖いって思う。

 頭がおかしいって認めるのと同じだから。

 だから、私を怖がるのは当然で、旦那は悪くない..です、よ」


 私の投げた言葉に、決まりの悪そうな表情が苦笑いになった。


「そうじゃねぇよ。

 俺だろ、俺が元だ。

 悪いっていやぁ俺だろう。

 聞けよ、俺が、怖がるって話じゃない。

 お前が俺を、怖がるって事だ」


「えっ私?なぜ旦那を怖がるんですか」


 心の芯に優しさがある人は、怖くない。

 だからこそ、そんな相手に悍ましいとされる事が辛かったのだ。

 私が怖がる?

 何をこの人は考えているんだ。

 また、私は相手の心を汲み取れなかったのか?


 そうして暫し見つめ合う。

 相手の表情を読もうと見つめる。

 と、徐々にカーンの眉が下がった。

 それまであった勢いがなくなり、普通の笑みが仄かに浮かぶ。


「..嘘じゃねぇんだよなぁ、まったく馬鹿だ、お前は」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る