第65話 蝶
薄暗い洞穴に、目の前には泉だ。
洞穴は水に沈み、その岸は美しい石で囲まれている。
石の縁取りに座り込み、その対岸を眺める。
薄暗く、その姿は朧に霞んでいた。
ソレは、背に透ける蝶の羽があった。
ゆっくりと動く羽は、見たこともない精緻な模様が浮かび、ほんのりと光る。
縮尺を間違っていなければ、大樹のごとき大きさである。
その蝶が本体は、人の形をしていた。
ゆったりとした長衣は、これも薄暮のように浮かびうっすらと影をいれた灰色だ。
よく見ると豪華な椅子が、水面から突き出ており、それにゆったりと腰掛けている。
彼、もしくは彼女の顔貌は、美しく青ざめた頬をしており、形の良い唇が笑んでいた。
ただ、その顔半分は、蟲である。
美しい白髪に秀でた額、そして蟲の複眼。
美しいが醜く、そして、ぞっとする気配を纏っている。
触覚はやはり蝶と同じく、長衣から見える肌も人の物ではなかった。
背の羽がゆっくりと動いているところを見ると、起きているようだ。
驚きや恐ろしさは、今も感じている。
だが、諦めが心をしめた。
出口は見当たらず、このような存在を前にして、何ができるのか。
出口は見当たらない。
この異形は会話ができるだろうか?
それとも食らいついてくるのだろうか。
私の逡巡に、相手が先に言葉を発した。
「久方ぶりの、供物か」
静かで、どこか笑いを含んだ声だった。
異形の発する言葉は、なんら我らと変わらず。
だが、男女の区別がつかない、不思議な音であった。
「供物ではない。お前は何だ」
答えというには、小さな呟きで返す。
開き直っても、怖かった。
「何とは、面白いことを。
では、何故、お前はここに来たのだ?」
穏やかな声音に、私は逡巡した。
「迷った」
男の道案内、爺たちの事、五人の村人と公爵たち。
いろいろな事があった。
けれど、私がここにたどり着いたのは、帰り道がわからないから?になる。
それに蝶は羽を揺らした。
「では、迷う者よ。お前の心は何を求める?」
不意に、深い緑が目の前にあった。
恐れる前にそれに呑まれ、私は深く沈む。
温かさを感じ、全てが遠くなっていく。
遠くなった意識に、チリンと鈴が鳴った。
チリンと鈴が鳴る度に、とても寂しい気持ちになった。
宮の底、泉に沈み目を閉じた。
***
私は、オリヴィアと名付けられた。
拾われたのは、五十年前。
当初は亜人の子として、でも直ぐに違うとなった。
成長が著しく遅く、肉体的には獣人か、特異な混血ではないか?と。
でも、私は知らない。
捨てられた理由も知らない。
知ろうとしなかった。
捨てられた理由を、知りたくなかったから。
いらないと捨てられた理由を、深く追いたくなかったから。
そのかわり、親が迎えに来てくれる。とは、思わなかった。
真冬の雪原に捨てていくのだ。
きっと生きる事を望まれてはいなかったはずだ。
認めるのは悔しい。
けれど、爺たちも村の皆も、そして領主、御館様の一族も、私を売らずに育てた。
どうして?
とは、聞けなかった。
捨てられた理由を考えないのと同じだよ。
生きるのが、本当の事が、怖かった。
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