第475話 孤独の岸辺(上)

 悲鳴。

 悲鳴が聞こえる。

 誰の悲鳴だろう?

 私は消し飛んだ。

 痛みよりも、不安と心配がまさる。

 悪意に晒され、無防備に生きる者たちが心配だ。

 人知れず増える悪意。

 それを潰さねば、滅びてしまう。

 共に生きてきたのだ。

 この地にて、一緒に生きてきたのだから。

 例え、どんなに醜く恐ろしい姿であれど、くだらない悪意に利用され、滅びてはならない。


 悪いのは誰?


 悪い事をしているのはどっち?


 悪意はここに住処を得た。

 ここに罪は在る。

 ならば神は罪を逃さず、すべてを滅ぼすだろう。


『貴方方の航海の無事を祈る

 オンタリオ公主、ニコル・コルテス』


 ニコル、ニコル、公主の名前。

 公主とは?

 つまり王の血筋。

 公王の?


 ***


 瞼が持ち上がらない。

 泣いて寝て起きれば、顔がぱんぱんだ。

 瞼が腫れ、体が冷え切っている。

 それでも、ごしごしと顔を擦って起き上がる。

 部屋は薄闇に包まれ、静かな雨音が聞こえた。

 城下では咽ぶような風と雨音が忍び込んでくる。

 けれどここでは、囂々と大気が流れ揺れるような雨音がした。

 空が近いのだろう。

 起き上がり、体のこわばりがとれるのを待つ。

 静かに待つと、心の形が戻ってくる。

 私という形。

 窓から見える水平線は、微かに緋色を残していた。

 まだ、黄昏が過ぎたばかりか。


 いつまでここに居るのだろう?

 いつまで、ここに居て良いのかな?


 不確かな事ばかり。

 教会に戻ったら?

 調べる事がいっぱいある。

 できるかな?

 私にできるかな?

 ここにいれば何もできない。と、言い訳できてしまうのが嫌だった。

 それでいいのか?

 でも、それも終わりではないのか?

 だから?

 選んだのは誰?

 そう、私だ。

 ふふっと笑う。


 私は融通が利かない人間だ。

 苦しいと思っても、相手の態度が変わっても、私は変わらないだろう。


 頭を振ると、洗面台で顔を洗った。

 洗面台には小さな石鹸、そして手ぬぐい。

 下々の宿よりも行き届いている。

 なにしろ簡易な便器もあれば、曇っているとはいえ、小さな鏡が壁に据えられている。

 貴人の使う鏡には及ばないが、十分に姿を映した。

 しみじみと覗き込む。

 瞼が腫れた不機嫌そうな顔だ。


 意気地なしめ、自分の事ばかり考えているから見えないんだ。

 差し出される手や思いやり、他の人の心がよく見えないんだ。

 そして何より、集った死者の声が聞こえなかったのは、己の中の弱さを抑えられなかったからだ。


 正直に白状すれば、邪魔をしていたのは自分自身の雑念だ。


 怖いという感情だ。

 当然?

 違う、グリモアの主は死者を恐れない。

 何故なら、己こそが使役する者だからだ。


 怖かったのは。

 どう思われたのか、わからなかったから。

 カーンに、どう思われたのか?と、慌てたんだ。

 悍ましいと振り払われたら、悲しいって。


 怖くて、悲しいって。

 

 正直に気持ちを切り揃える。


 私は嫌われたくなかった。

 でも、これからどうなろうとも、今まで選んだ事にかわりはない。

 そう認めてから、心の奥にしまった。

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