第367話 幕間 怒りの矛先

 絶望したと言えるのならば、まだ、物を知らない子供なのだ。

 本当に絶望した者は、何も語らぬものである。

 ふと本神殿の敷地に立ち、ジェレマイアは思った。

 それに疲れているなと自覚する。

 だが、そうして疲れ切って帰ってくると、神殿長が更に窶れていた。

 自分より、窶れているので愚痴も言えない。

 理由は大体わかっている。

 グリモアを内包する少女の所為だろう。

 もちろん、毛髪と胃に攻撃を仕掛けているのは、少女ではない。

 神殿長も巫女頭も、少女のお行儀の良さには満足している。

 誰も彼女の事情を責めもしないし、神から与えられる試練に同情していた。

 ジェレマイアも誰も、彼女に問題を感じたことは一度もない。

 いつも問題を押し付けられる者にしてみれば、彼女は素直で勤勉だ。

 いつもいつも神殿に預けられるのは、手癖の悪い浮浪児や、年長者を敬う事を忘れた貴族の餓鬼だ。

 行儀を知らぬ浮浪児よりも、躾のなってない貴族の餓鬼ほど厄介な者はいない。

 と、ジェレマイア自身とコンスタンツェがそのいい例である。

 反抗期を神殿で過ごした両名は、垂れ幕に火をつけ、遺物を叩き売り、聖なる水に色をつけと、まさしく餓鬼そのものの悪戯をした。

 神殿とは憂さをはらす場所であった。

 見捨てられた子供に手を差し伸べる彼らを、憎むしかなかったのだ。

 そうでもしなければ、親から全てから疎まれたと認めなければならない。

 子供だったのだ。

 絶望した大人は、他人に期待をしない。

 この世や神にもだ。

 その点、コンスタンツェは執念深く恨みすねているだけ、純粋だとジェレマイアは思う。

 殺されてなるものか、憎しみに呑まれてなるものか。

 と、耐えて愛に至るとは限らない。

 その良い例が自分だとジェレマイアは自嘲する。

 コンスタンツェは否定するだろうが、彼は己を憐れみすぎている。

 彼は憎まれ蔑まれていると思っているだろうが、彼は親の愛に縁は無くとも、大方、彼を取り巻く人々には愛されていた。

 愛情を与えようとする者がいた。

 ジェレマイアのように、殺すだけでは飽き足らず、死後も魂ごと苦しみ、生き残るならば苦しみの中で這い回れと呪われている訳ではない。

 複数の悪意による呪いが憑いている訳ではない。

 お陰様で生きているよ。

 と、ジェレマイアはいつものように呟く。

 生きているだけで、彼は十分意趣返しができている。

 更に赦してやるのだ。

 こうして赦し、楽しんで生きている姿を見せているだけで、呪った者には罰になる。

 彼らには、長く己がした間違いを償わせねばならない。そして原因となった大罪を忘れないように戒めねばならない。

 これは愛ではない。

 赦しは、迂遠な復讐である。

 ジェレマイアは、正しい神の子になった。

 苦しみの元を知る為に、憎むよりも知る事を優先した。

 知る事。

 間違いは何故起きたのか?

 何故、自分は呪われたのか?

 過去の事、自分の事を知りたかった。

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