第51話 グリモアの主 ③

 戸惑う俺を見て、男は小さく笑った。

 すると歌が静まり、吐息だけが聴こえた。


「時間がかかってしまったけれど、これで自由になれる」


 男はそう言うと、森に顔を向けた。


「ちゃんと、これで還れるよ」


 子供のような口調で、男は笑った。

 群青色の夜空に、黒い森の影が聳えている。

 そして、砦から入江まで続く、灰色の荒れた大地は、星の光りに照らされていた。

 静かな景色だ。

 由来で見えたのが、嘘のように止まった景色。


「お花が咲いたら、お家に還るのさ」


 男の呟き。

 その時、森が動いた。

 黒い影が、灰色の大地に染み出したように広がる。

 ぞわぞわと蠢き、それは森から溢れ出した。

 黒い絨毯がジグの塩で荒れた土地を覆っていく。

 夜目には、それが何か判別できなかった。

 拳ほどの大きさのモノが、視界いっぱいに蠢いている。

 蝗や増えすぎた害獣の群れのように、それはキィキィ喚いていた。

 俺は、幻覚を見ている。

 逃避していると、男が手招いた。

 窓辺から離れると、部屋の外へ。

 そして屋上に出ると、黒い絨毯の行き先を見た。

 黒いうねりは、奇っ怪な鳴き声をあげ、入江に向かっていた。

 たくさんの灯火。

 たくさんの命。

 人への備えはしていたろう、灯火が揺れる。

 あっというまに異形の群れに呑まれ消えていく。

 闇が広がり、端から順々に消えていく。

 不意に風が吹き付ける。

 生臭い血のにおいだ。

 黒いうねりは、波打ち際で止まる。

 だが、それも一瞬で、あっという間に海水にも溶け込んだ。

 黒いモノが通り過ぎた大地に目を向ける。

 生き物が通れば、某かの痕跡があるはずだ。

 だが、そこに変化は無い。

 ドンっと、空気が震える。

 帆船の一つから炎が上がっている。黒いうねりが船にたどりついたのだ。

 炎に照らされて、入江に停泊する船の甲板が見える。

 逃げ惑う人に黒いモノが集る。

 人は崩折れ、火柱が次々と上がった。

 海へと飛び込む人もいた。

 けれど、海にもそれはいて、藻掻き苦しむ人々に集り引きずり込んでいった。


「這い寄るモノだよ、きっと寂しかったんだね」


 男はしきりに、自分の正しさを説いていた。

 何の正しさかって?

 男の信じる神の正しさだよ。

 俺も、その時は正しいと思ったんだ。

 明け方まで、見ていた。

 男は、俺に小さな鈴を渡した。

 小さな銀の鈴だ。

 薄紫の花の形になっている。

 掌で転がすと、チリンと小さく鳴るんだ。

 すると、悪夢が消えるんだ。

 チリンと鳴らすと、悲しくなった。

 チリン、チリンと鳴らし続けた。

 やがて、入江に朝陽が射しこむと、船の残骸と死骸が見えた。

 白い骨が砂浜に、たくさんたくさん並んでいた。

 俺の隣で、男が笑う。

 嬉しそうに、楽しそうに、本を抱えて笑っていた。

 俺は、悲しくてやりきれなかった。

 俺は、もう、帰れないんだとわかったからだ。




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