第113話 幕間 微睡み ③
右手には、智者の鏡がある。
なぜ、持っている。
違和感。
思考の散逸、感覚の鈍麻。
カーンは咄嗟に娘から身を引いた。
この感覚は知っている。
毒でも麻痺でもない。
自白剤に似ている。
自分自身を管理できない。統制がとれない。
恐怖に近いものを覚え、カーンは身を強張らせた。
駄目だ。
それでも考えようすると逆に感覚が乱れる。
小屋を見回すが異常は見えない。
馬の落ち着いた瞳を見て、彼は自分がおかしくなっていると自覚した。
ガクガクと手が震えている。
その瞬間にも、思考は散逸し、何が問題かもわからなくなりそうだ。
「ナリス、俺は、どうしたんだ?」
問いかけに、日頃沈黙を貫く神器が答えた。
「我が仕掛けた遊戯ではない。
お前自身の行いが、お前自身に返るだけのことよ。
それよりも、外に客だ」
剣を握り、小屋を飛び出す。
建物の周囲を素早く見回した。
誰もいない。
気配を探りながら剣を抜く。
「俺に何をした」
懐に差したナリスが笑った。
白い世界にカーンの息が消える。
集中するべきは、神器の方ではない。
気配なく、それは彼の前にいた。
赤いひとつ目の鷲だ。
見つけると共に、とまる枝ごと叩き斬る。
雪に落ちたのは枝だけだ。
ひとつ目はするりと隣りの枝に身を移す。
唸り声を上げているのはカーンの方だ。
すっかりのぼせあがっている。
それを自覚したのは、散々枝をおろした後だ。
息を切らして膝をつくカーンに、ナリスの嘲笑が重なる。
それに答えるように、鷲も身を震わせた。
「俺に、何、を」
絞るように怒鳴ると、怪異はゆっくりと瞬きをした。
鷲ではない。
「オマエ、アル」
甲高い声で鳥の怪異は言った。
「オマエ、ウマソウ、モッテル」
クッテイイカ?
翼を広げてソレは笑った。
白い雪がどす黒く汚れた頃、カーンはやっと武器をおろした。
鳥の怪異を殺しても、頭の中の靄は晴れない。
散々騒いだというのに、小屋の中も静かだ。
これも怪異の仕業か、はたまた自分の気が触れたのか。
ともすれば何もわからなくなる事を恐れ、彼は自らの掌に刃をあてる。
再生力の高い獣人でも数日は傷が残るはず。
(血を絞ったところで、貴様は忘れるのだ)
虚脱感を抱えて、カーンは小屋に戻った。
一歩進めば、何を悩んでいたかも忘れた。
ただそれでも、自らが何かを忘れたという事だけは、辛うじて残った。
もちろん、忘れた事を覚えていたとして意味があるのかわからない。
戸口で振り返る。
雪が降る景色に、遠い地平には朧な月だ。
双子の月の片割れが、地吹雪の中に浮かんでいる。
汚れた雪もあっという間に覆い隠された。
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