第670話 挿話 兵(つわもの)よ、剣を掲げよ盾を押せ (下)前⑥

 イグナシオが思うに、東の三公爵は何某かの盟約をしていた。

 まぁ古くからの兄弟領地だ。

 何某かの約束や協定はあるだろう。

 だが、それは他者が窺い知る、想像できるような利害関係の協定ではないのだろう。

 愛という言葉を持ち出したボフダン公の戯言をして、それは単純な利害では片付けられない約束だとわかる。


 愛。


 帰路につく前にと領主街の外壁にて隊列を整える。

 ボフダンからの同行者を待つ間である。

 同行者、コルテスとの政治調整役にと一人同道する事になっていた。


 その待ち人を待つ間、暇な時間に再びの空白がイグナシオの思考を蝕む。

 お陰で思わず口元を歪め、彼は笑い出しそうになった。

 ボフダン公爵が振りまく愛という言葉に、かけらも重みがなかったのを思い出したからだ。


 愛。


 イグナシオの愛は、すべて彼の信じる神へと預けられた。

 そういう意味では、現世の人の愛は失っている。

 男女の愛も、家族の愛も。

 すべてが眺めいる絵画の如く遠い。

 彼は愛の前では、死人である。


 彼の血は冥府にあり、彼を蘇らせる人の愛は無いのだ。


 かつて愛していた人々は、黄泉へと旅立ち世に還った。

 彼の愛は、神へと還ったのだ。


 まだまだ若いと言われる彼に、誰も彼もが諭すだろう。

 まだ人としての幸せを望むべきだと。

 愛が幸せと同じ意味とはならないのにだ。


 終わりを迎えた者であるイグナシオにとって、生きる意味はひとつだ。

 完結した物語があるだけで、彼の前には一つの道だけが示されている。

 幸いだと心から思える道だ。

 その点だけは、この世に生きる他の者よりも幸せであると思っている。


「さて、貴方のおかげで荷駄が三台になりましたね。」

「多かったか?」

「いいえ、内容を確認しましたが、最新の金属加工品と爆発物の見本品ですからね。これ、まだ軍部で未承認の物ばかりですよ。

 カーンへの手土産としては十分ですし、もっとあってもいいぐらいですね。

 海路と陸路が確保できないのが残念です」

「陸路はいずれどうにかなるとして、海路は商会船を出せばいいだろう」

「公爵閣下からの忠告です。

 海路は閉じ、できれば船は絶対に航行させないでくれとの事です。」

「どいういう事だ?」

「具体的な事は教えてもらえませんでしたが、東から何かを輸送する事は禁忌にあたるそうです。」

「禁忌?」

「お目溢しは、こうした小荷駄での輸送。

 金属、火薬などならば良いそうですが。

 人や生き物、食料、そうですね、ともかくならば良いそうですよ」

「正気か?」

「ボフダン公には、一の姫と呼ばれる娘様がいらっしゃるのですが」

「何の話だ?」

「一の姫様は、巫覡だそうですよ」

「フゲキ?」

「神聖教の神官位の事です。

 神の言葉や意向を伝える男女の事です。

 一の姫と呼ばれるボフダンの姫からの託宣ですね。」

「比喩か?」

「さぁ、鎖領して収入源を一時断つ判断をしているのは本当ですしね。

 陸路を確保し、移送団を組んだ方が安全でしょう。

 それには先に騒ぎを鎮圧せねばなりませんが。

 それもコルテス次第です。

 あぁ、やっと来たようですね。」


 外壁の衛所から若い男が来るのが見えた。

 長身痩躯の若い、長命種だ。


「公爵の氏族でしょうね、そっくりだ」

「そうなのか?まったく違って見えるが」


 刈り込んだ短髪は薄い色。

 色白で物柔らかな雰囲気の青年に見える。

 決して筋肉質の色黒で黒髪縮れ毛、奇矯な格好の誰かとは似ても似つかない。


「そっくりなんですよ。

 公爵閣下は単に日焼けしやすい体質で、髪の毛はつけ毛です。

 ちなみに垂れ目で眼鏡がなければ、非常に優しいお顔立ちです。」

「やっぱり馬鹿なのか?」

「不敬ですよ」

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