第597話 夏の空に言葉を喪う ③

 落ちていた一瞬は過ぎ去り、目を見開く。

 カーンは再び、異形へと剣を突き立てていた。

 眼の前には黒い姿。

 異形は、不思議そうに私を見ている。

 仮面のような顔。

 宮の道化師よりも、もっと虚ろ。

 術の形代だからだろうか。

 その振り上げられた鎌は中空で留まり、かたわらの男は唸りながら剣先を抉りこむ。


『さぁ、王に願ってご覧、供物の女。

 君がそれでいいというのなら。

 僕たちは、忠告はしたからね。

 君は誰かを犠牲にして生きてきた。

 今更、誰かの犠牲を恐れる必要は無いんだよ。

 それでもいいんだね?』


 はやく、早くしろ!


『焦らなくてもいいさ、兵士は死ぬのが仕事だろ?』


 これは私のグリモアの主の領分だ!


『他にも帳尻をあわせる方法はあるんだよ?』


 誰かの命で、無差別に補填しようとするな!

 ならば私を歯車として、術への干渉を切るのだ。

 誰かの命のかわりに、私を歯車としろ。

 私のすべてが使えぬのなら、一部を歯車として力の流れを整えるのだ。

 強い言葉で言う。


 私を使え。

 グリモアの主が命だ!


『馬鹿だね。

 だんだんと君の差し出せる真心がなくなっていくよ。

 宮が主の取り分。

 僕たち魔導書の力の取り分。

 切り分けて切り分けて、残ったのは、ほんの一欠片だ。

 最後の一欠片は、君の分。

 本当に、いいの?

 本当に、後悔しない?

 君の取り分。

 君の真心。

 可哀想で、可愛い君の、大切な取り分。

 見も知らぬ誰かの支払いの為に、差し出したって、誰も知らないし、知ろうともしない。

 君の真心は、報われもしないんだよ?』


 異形は不思議そうに私を見ている。

 私は異形の体に手を置いた。

 左手だけが何の障害もなく動き、異形の冷たい胸へと触れる。

 氷みたい。

 掌から伝わるのは、死だ。


『さぁ命の炎を吸い取られる前に願ってごらん。

 理の守護者が持ち物である、我らが力を御覧じろ』


 スッと頭が冴え渡る。

 すると仮初の王の凍える吐息を間近で感じた。

 相手が耳をかたむけるのがわかる。


 王よ、

 お怒りをお鎮めください。

 この場の者達は、未だ黄泉の岸辺へ向かう者達ではありません。

 お連れいただく者は、別におります。

 どうか刃をおおさめください。

 迷える魂、死者をお導きください。

 我らは岸辺より、見送る者でございます。

 どうか、どうか。

 お連れいただく、モーデンの民は、直ぐ側、別の者どもでございます。


 幽鬼の王よ

 太古の王よ

 モーデンの民の護りてよ

 どうか死者を、あなたの民をお導きください。


 グリモアの干渉による一瞬の事。

 それは時の狭間を作り出し、私の願いは王へと流れる。

 狭間の中であるが、それでも焦りから言葉が所々で途切れた。

 いい終えると同時に、狭間は失せて時が動く。


 カーンは潰された武器から手を放し、再び壁際に転がり戻る。

 そして鎌の攻撃に備えて腰を落とした。


 だが、異形は鎌を振り上げなかった。


 カーンは、かわりの武器をさがし腰を落としたまま仲間の方へと動く。

 それを腕を叩いて止めた。

 攻撃が止まっている。

 獣人兵への攻撃も、死者の兵士の動きも止まっていた。

 それでも動き出そうとするカーンに、強く念じた。


 止めろ、と。

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