第89話 呪いと祝福

 あの男は、客の首とお前を寄越せと言っている。


 宮の客は、種である。

 この死者の宮を支える命の種だ。

 宮は摂理を守り、魂の裁定を行う場所である。

 決して生きて辿り着いてはならぬ場所。

 人の言う冥府である。

 その死の神に、供えられた命が戻る事は無い。


 故に、あの男が求める首は、手に入らない。


 お前は、供物である。

 罪咎の天秤に乗せる命の錘だ。

 供物は理を守り、魂の罪をはかる道標である。

 我の慰みであり、人の救いだ。


 故に、捧げられた供物が戻る事は無い。


 あの男は、お前の助命嘆願によって生きている。

 罪人でありながら、ああして生きている。

 供物が選んだ故の、我らの譲歩だ。

 だが、浅はかな願い故、本来なれば叶うことはない。

 供物とは、命を投げ捨てる事ではないからだ。


 故に、あの男は己の罪にみあった罰が与えられる。

 本来なれば、な。


 だが、それでは同じだ。

 幾度も幾度も繰り返した。

 我は、飽いている。

 我は、滅びを良しとはしない。

 我は、混沌を望む。

 楽しき齋を、死者の嘆きを押しやる程の、楽しき祝祭を望む。


 愚かで憐れ故に、今一度、選ぶことを許そう。

 幼い供物に、今一度だけ。

 そして汝に、名を与えよう。

 昔、我がまだ、人の形骸を残していた頃の思い出によせて。

 森の娘に名を、我の名を刻もう。

 必ず還れるように。

 真実、選び取れるように。



 カーンの足元に光りが奔る。

 あの転移の輪だ。

 徐々に広がり、男を包む。

 その時だ。

 幻越しに、目があった。

 狼の目が私を睨む。

 雪の日に見る獣の瞳は何を見ているのだろう。

 私にはわからない。


 ***


 嘗てディーター・ボルネフェルトと呼ばれた血肉は、すべてグリモアに喰われた。

 そのグリモア、オラクルの魔導書は、死霊術師の魂が燃え尽きるまで、その主たる彼の行動をなぞった。

 それは十一歳の初夏、夜明けを待たずに死んだ少年の魂だ。

 そこに特筆すべき奇矯な性格も、邪悪な心根の芽も無い。

 明日を望む少年が、骨肉の争いにより不幸に落ちただけである。

 その不幸を知り利用されただけぞ。

 彼は、夜明けを見ずに家族とともに死に終わる。

 だが、な、


 偶々?


 笑うでない。

 兄弟よ、人間の繁栄など偶然に過ぎないのは知っておろう。

 故に、この者も生き残り、こうして我らの元へと辿り着いた。

 、あちらの命運が尽き、逃げ切れなかっただけの事。

 私が顕現し、兄弟が人の世に戻ってきたのも、よ。

 あぁ笑える話しぞ。

 ディーター・ボルネフェルトの脆弱な魂は、グリモアを与えられた。

 、全知全能たる者の手から溢れた魔導書がな。

 裏庭で子供の遺体の側に落ちたのだ、な。


 血塗れの魔導書に、血塗れの遺骸。


 選ばれたのは偶然だが、資質は十分だ。

 ではあるし、器としては欠けていたが、実験には最適だ。

 ただ、その資質は予想を上回り、呪術を極め、更に呪縛を逃れる術まで見つけた。

 それは少年自身の魂が、怨みを越えた場所にあったからだ。

 少年らしい好奇心と、明日を望む心が備わっていたからだ。

 魂の主導権をグリモアに渡した事も、この結果を導いた。

 ボルネフェルトは、グリモアの糧。

 主従は逆で、グリモアこそが主だ。


 では、グリモアとは何だ?


 笑わずに、久方ぶりの会話をしようぞ。

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