第88話 冬の狼

 招かれて、私は主の部屋の小さな足掛けに腰を下ろす。

 見かけとは違い、水晶は人肌の暖かさだ。

 疲れ切っていたのか、カーンが扉から引き返すのをぼんやりと見ていた。


 男は、帰らなかった。


 どうなるんだろう?

 彼は、助からない?

 そんな私を見ながら、主は微笑んでいた。


「兄弟、語ってやるがよいのであ〜る。

 森の民の子は、あいも変わらず慈悲に富む。

 他人ごとばかりに心砕いて、誠、愚かで憐れであ〜る」


 男は、迷路に戻ると無闇に歩き出した。


「ウルリヒ・カーンは、獣の子だ」


 仮面の異形の言葉に、懐のナリスが苦々しく答えた。


「幼き頃より、人を殺し生きてきた。

 罪業深く、救いようのない獣だ。」


 懐から薄板を取り出す。

 異形は又も声を出して笑った。


「獣は、己の前の邪魔者を殺す。

 罪を許さず。

 人を許さず。

 己を許さず。

 人の世のすべてに、一片の期待も持たない。

 実に、忌々しい獣だ。」

「それは重畳である。まるで、我らのようではないか?」


 ナリスは押し黙った。


「信じる心を持たず。

 憎悪と狂気を持つなぞ、実に素晴らしいのであ〜る。

 元より、邪悪を知るならば、それもまた結構、結構」

「娘よ、宮の呪いとは、己が内にあるものを肥大させる。

 それも負のものをだ。慈悲なぞ、かける相手ではない」

「さてもさても、ウルリヒ・カーンなる男を見てみよう。兄弟よ、読んで供物に教えるのである。

 供物の女が選んだ、答えを教えるのであ〜る」


 面倒な、とナリスが呟く。

 私は幻影に目を向けた。


 読むほどの苦悩なぞ、あの獣には無い。

 下劣な欲望も人並みだ。

 あの獣に、悲壮な生い立ちなぞないぞ。

 単に、獣が獣として育っただけだ。

 他の人間どもとの違いなぞ、自覚があるかないかだ。

 己が下劣な獣だという自覚だ。

 今も、その獣が奴の中で、姿を大きくしているだろう。

 獣は怒り狂っている。

 娘がかけた慈悲が元で。

 慈悲ではないか?

 そうか、だが、獣は慈悲と感じたのだ。

 獲物も逃し、慈悲をかけられた獣はどうすればいい?

 このまま手ぶらで巣に帰るのか?

 飼い主は許すだろうが、獣自身は許せまい。

 くだらない自尊心の為にな。

 理解できないか?

 私もだ。

 獣は、お前の慈悲にうたれて、その足を戻したのではない。

 怒りだ。

 道理ではなく、侮辱と受け取り戻ったのだ。

 獣を動かすのは、理性ではない。


 ウルリヒ・カーン・バルドルバは、中央軍では狼と呼ばれている。

 獣人だからではない。

 狩りが巧みで、執拗だからだ。

 何日も執拗に追いかけて、配下を伴い徐々に追い詰める。

 戦の時もそうだ。

 あれが通ると灰が残ると言われている。

 骨も残らず灰だけがな。

 あれに情けをかける?

 お前は優しすぎるのだ。

 そしてアレには、優しさは届かない。

 情けとは侮るということだ。

 お前は弱いと決めつけたも同然。

 自分よりはるかに弱いお前に、助けられた。

 罠にはまった狼を逃した、馬鹿な娘。

 罠を外したお前はどうなるのだ?

 罠から逃れた狼は、何を思う?



 いつの間にか、カーンは闇の中にいた。

 何かを言っている。

 剣を担ぎ、腰には首を下げ。

 荒々しい形相で何かを叫んでいる

 私は、諦めることで、すべてが上手くおさまると思っていた。

 だが、これは何だ?

 この男は何だ?

 私の混乱に、宮の主は笑みを深くした。

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