第610話 花が咲く ⑤

 小刀は、刃先を皮膚にそわせただけで、ザクリと切れた。

 血を絞るように拳を握る。

 柔らかな土に、血を落とす。


 供物の我が血を混ぜて、ここに沈む魂に聞こう。

 何があった?


 血を絞り、土に混ぜる。

 静まり返ったこの場所で、お花が咲いたこの場所で。


 何があったんだ?


 一時の間。


 赤黒い土から、白い指が見えた。

 土をかき分け、白い指がいくつも、いくつも生えてくる。

 やがて土に汚れた掌が、続いて手首が見えてくる。

 たくさんの土に汚れた手が、足首を膝を掴み、上着を掴んで這い出した。

 なのに、肝心のその先が見えない。

 肩から上は見えず、たくさんの白い手が取りすがるばかりだ。


 何が、あった?


 わかりきった今更の問いだ。

 と、思いながら私は問いかける。

 そうして繰り返すと、手が苦しそうに震えた。


 ゆっくりと瞬きを繰り返す。

 グリモアと同調し、理の乱れ、穢を調律するのだ。

 調律、調和を。

 何も恐れる事は無い。

 この世界に生きて死ぬ事は、怖い事ではない。

 今も感じているだろう。

 湿った大気、冬の朝の気配。

 囲む人影、その吐息。

 すべて命は輝き、屍に咲く花も美しい。

 残酷で無惨な死に様を与える世界。

 醜くも美しい事。

 繋がる私。

 グリモアの力、歯車が回る。

 斜めに切り取るように視界が、色合いを変えていく。


「オリヴィア!」


 大丈夫。


 怖い事は無い。

 話してくれ。

 この世の果てに取り残されたような孤独と苦痛。

 その孤独と苦痛を手放してはいけない。

 この世の果てこそが、己が中心だ。

 高く、低く、鳥になり、虫になる。

 草の影、露を含んだ木立が見える。


 瞬きを繰り返す。


 さぁ手を。

 大丈夫、怖くない。

 私は土に倒れ、空を見上げる。

 胸苦しいような朝焼けの空。


 大丈夫だ。

 怖くない。

 切り取られた場所を見つめる。


 君たちは誰?

 君は誰?


 話してくれるのかい?

 悲しい事を思い出させてごめんね。

 でも聞かせてほしいんだ。

 きっと届くはずだから。

 そうしたら、還れるよ。

 誰もが還る場所に。

 私も何れ還る場所に。


 答えるように、輪が浮かび上がる。

 ザラザラとした一重の輪。

 単純な紋様。

 赤く黒く。

 忌まわしくも呪わしい怨嗟の輪。

 迷うように伸ばされた、泥まみれの手を握る。


 大丈夫、このような稚拙な業など恐れるに足りぬ。

 美しい術を醜く変えた、君の身にあった出来事を。


 そうして追いやられようとする、小さな意識を捉えた。

 代わりに、怨嗟の輪から赤黒い悪意がにじんだ。

 それは白い手を握りつぶすと、かわりに腐りかけた肉と髪束になり、絡みつこうと押し寄せる。

 その髪束は、何かヌルヌルと湿った生き物の手足に見えた。

 白い手を探し私が手を伸ばすと、阻むように飛びつく。

 素早く手首に巻き付くと、棘に刺されたかのように痛みが伝わる。

 反撃を。

 と、考える前に、痛みも穢の術も霧散する。

 同時に沈黙していたグリモアの怒号、集う悪霊達の絶叫のような怒鳴り声が響き渡った。

 どうやら煮え立つような怒りにて、反撃を行ったようだ。


 怒り。


 義憤ではない。

 グリモアに集う者どもが嫌う、醜さへの怒り。

 稚拙な業を使う者への怒りだった。

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