第609話 花が咲く ④

 グリモアを開く、それは頭の中、私の思念だ。

 たぶん、願えば手に取る形にもできるだろう。

 私が使いやすいように想像している訳では無い。

 書物としての形をグリモアが備えているからだ。

 もっと力を振るえる程の、知識や繋がりがあれば、この世にも具現化できるのだろう。

 荘厳な装丁の大きな書物の形だったり、宿る魂の姿であったり。

 私の頭の中で形をとる姿が実際に現れる事も可能、なんだと思う。

 声だけ、私の心の中だけで形をとる彼らも、他の人たちに見えるほどの存在に。

 ただ、私はそういう意味では正統な主ではないと思う。

 彼らを使う事、知る事に抵抗もあるし、喜び勇んで不可思議な力を手に取りたいとも思わない。

 人間の在り方や、魂の事、この世に起きる不可思議で理不尽な事を知りたい。

 とは、思わない。


 普通じゃなくなるから?

 もう、普通じゃない。


 自分じゃなくなるから?

 もう、どこまでが自分自身の考えかわからない。


 それでも悲しいこと、辛い事、酷く無惨な事を見たくないんだ。

 どうしてわかる?

 わかるからだ。


 楽しいことは教えてくれない。

 料理の香りを伝えては来ない。


 グリモアに詰まる魂達が教えてくれるのは、恐怖や暴力、理不尽な出来事、血の匂いや悲劇、人の怨嗟の声、その微かな残り香だ。


 誰かの悲鳴を聞きたくない。

 断末魔も、残酷な事実も知りたくない。

 私は臆病だし、傷つきたくないし、悲しい話を知りたくない。

 知らない訳じゃない。

 知りたくないのだ。

 人は簡単に死ぬと知っている。

 ちょっとした事で魂が壊れてしまう事も知っている。

 無惨な死体も半死の姿も、知っている。

 それまでそこにあった魂が、ちょっとした事で損なわれ、消えてしまう事。

 生きていれば、死は側にある。

 戦に出た事もなく、未曾有の事々にさらされた事も無いけれど。

 酷い死には、出会った事がある。

 近しい人が死んだ時の、息の詰まるような痛みも知っている。

 だからこそ、もっともっと酷く記憶に残るだろう痛みを知りたくないと思うのだ。


 でも、これは必要な事。

 もっと辛いことがおきないようにしなきゃね。

 それに、私は不器用だから。

 耳を塞いで通り過ぎても、きっと戻って確かめたいと思うんだ。


 柔らかい土に、足が沈む。

 足跡を残しながら、真ん中に立つ。

 カーン達には、円を描くように囲み留まってもらった。


 人の魂は死ねば宮へと還る。

 死んだ事を知らぬで留まる場合はあるが。


 グリモアは、そよそよと頁を揺らがせ、知識を流す。

 この場の穢についてだ。


 留まる者を還す事もグリモアならば容易である。

 が、本来のそうした残滓は、時がたてば消え去り理に戻る。

 つまり何ら手をかさずとも、理により戻るのだ。

 死とは自然な事である。

 どのような経緯であれ、死後に苦しむ事は無い。

 残るは一時の事、薄れ消え去るが定めである。

 では、そのような定めに逆らい、怨嗟と悲憤に塗れた魂の多くが集まる場とは何か?

 死霊術ではない。

 残念ながら、これは稚拙な呪術の介入が元である。

 残念ながら。

 と、誰の人格かはわからぬが、グリモアのため息が聞こえた。


 誰も、何が起こっても手出しはしないでください。


「約束できねぇな、危なくなったら手を出す」


 危なくないですよ。


 私は片手を突き出し、もう片方の手にある小刀を掌に添えた。


「血を使うなんざ、もう危ねぇじゃねえか。

 ともかく刃を引くんじゃないぞ、当てるだけだ。

 聞いてるか?」


 皆の心配そうな顔を見て、肩をすくめる。

 基盤の術に影響を与えず死者と繋がるには、主の血が一番だ。

 グリモアの示唆は、穢だけを断つには、私の力は強すぎるそうだ。

 改変を行うと、鎮護の道行きにも影響がでるらしい。


「そんな訳あるか!

 血反吐はいて口もきけねぇガキの、どこが強いんだ?

 ともかく何かあったら中止だ中止、わかったか?」


 うん、何だか少し、気分が落ち着いたぞ。

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