第690話 帰路にて ②

 眠いような寝て良いのか、という懊悩が過ぎると、疲れていたのか猫を抱えたまま船をこいだ。


 猫。


 先程までの騒動を思い返す。


 この猫を抱えていたら、コルテス公の目が丸くなった。

 すかした作り笑いが崩れて、見事な驚愕の表情だった。

 そして猫に触れようとして、ひっかかれるという惨事に。

 カーンは捨ててこいと言うし、コルテス公はひっかかれたのに気が狂ったように笑い崩れているし。

 すっかり気分を害した猫は、地面に下ろすと毛を膨らませて公爵を威嚇した。

 カーンは村の野良猫と勘違いして、片手で捕まえてぶら下げる。

 それに猫は大暴れだ。

 暴れて爪をたて、最後に手首に巻き付くと噛んだ。

 血が吹き出るほどだ。

 ちょうど手甲と手袋を外し素手だったから、牙が音をたてて突き立ち血飛沫が舞った。

 えっ?

 と、周りは、カーンの負傷に反応できず、理解して血の気が退いている。

 一瞬だ。

 もう、すべてが一瞬で、何が起きたのか把握した時には血飛沫だ。

 それを見て、コルテス公は崩折れるほど爆笑だ。

 ひきつけながら笑う。


『その猫はね、男が死ぬほど嫌いなんだよ。

 女の手しか触らせない性悪だ。

 まぁ子猫だ。

 大猫だけど、まだ、子猫なんだよ。

 許して、やって、おくれ。ふっ』


 小動物だ。

 カーンにしても、猛獣ではないと我慢したようだ。

 それより、私があげた念話の悲鳴が煩かったようだ。

 片耳に指を差し込んで呻いた。

 公爵の言葉に、ミアが慌てて猫とカーンを引き剥がす。

 それまでの大暴れが嘘のように、彼女の手には従った。

 両脇を手で抱えるように捕まえると、だらりと力を抜く。

 尻尾を機嫌よく揺らしながら、伸びる姿は実に暢気に見えた。

 鼻の頭にシワを寄せて食い付いていたのが嘘のようである。


『野良猫じゃありませんよ。

 はぁ笑いすぎて苦しい。

 久しぶりに笑わせてもらいましたよ。

 はぁ、お前、お前も中々に執念深いね。

 あぁ笑った笑った。』


 公爵は、猫に手を伸ばそうとして思いとどまる。


『お前、その子が気に入ったのかい?』


 猫との会話に周りは呆れていた。

 だが、公爵も猫も、当然のように私を見た。

 にゃぁと間抜けな返事。


『じゃぁ噛みつくのは仕方ないね』

『何がしかたねぇんだよ』


 ニコリと笑って見せる男に、カーンがぼやく。

 私はミアから猫を受け取り、抱え直した。

 カーンが改めて猫を見下ろす。


『猫の牙じゃねぇぞ』


 噛み傷は深く、穴になっている。

 出血は一応止まったようだ。


 噛んじゃ駄目だよ。

 と、猫の目を見つめる。

 ふいっとわざとらしく目をそらされる。

 確信犯。


『野良猫じゃなさそうだな』


 たぶん、猫、でもないです。

 とは言わずに、私は、やはりだらりと力を抜いている猫を揺すった。

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