第591話 幽鬼 ③
燭台の炎が揺らぐ。
ふわりと揺らぐと、遠くから微かな音が聞こえてきた。
目前の奔流は変わらず、だが、微かな音は確実に近づいているのがわかる。
場所は何処だ?
方向は広間中央にある階段の奥だ。
地下貯蔵庫の方向ではあるが、そこからでもない。
足音だ。
それは何かを引きずり、金属の擦れる音も聞こえる。
何が来る?
私達が凝視する中、階段の中程から、ふわりと白い霞が現れた。
悍ましいモノを想像していた私達は、その姿に拍子抜けする。
それは角灯を掲げた男と馬、そして馬に座る娘だ。
男は馬の手綱を握り、霧の中を進むように角灯を左右に振っている。
馬はゆっくりと泳ぐように歩を進める。
馬上の娘は、目を閉じて鞍に両手を置き揺れていた。
白い靄、青白い馬、角灯を振る男の神妙な表情。
そして安らかに眠る馬上の娘。
娘は古風な衣装に髪を絹の白布で覆っている。
その道行きに我々の姿は無いのだろうか、見えぬ道をゆっくりと進み通り過ぎる。
「見えていますか?攻撃は駄目です」
「ミア」
「視認できています。待機だ」
まるで靄に包まれ旅するかのような姿からは、悍ましい気配なぞ欠片も感じられなかったのだ。
カチリ、カチリと鳴るのは、男の首から下がる金の記章だ。
その男は前がよく見えないのか、しきりと灯りを掲げては先を照らし見ていた。
馬上の娘は、安らかな表情でうつらうつらと揺れている。
眠っているのか、不安定な鞍の上だというのに幸せそうな表情だ。
私達は何も言わず息を殺し、霞が入口へと抜けていくのを見守った。
誰かが何かを言う前に、私は手を挙げると口を開かぬように身振する。
引き摺るような音が、階段奥の方向から聞こえ始めていたからだ。
霞を纏う姿。
夢に揺蕩う姿をした術式は、まさしく神の手による無邪気な気配を纏っていた。
それは死霊術を超えた力であり、神を見ることが叶わぬ者達でさえ正しく捉える事ができた。
そして同じく、続く気配も捉える。
深く暗い場所から、何かが来る。
重く大きな揺らぎ。
心を重くし体を強張らせる何か。
振動がした。
現実世界を微かに揺らし、壊れかけた建物から破片を篩い落とす。
何処から?
霞をまとった人と馬は唐突に行き過ぎていったが、今度は階段の真ん中。
何も無いはずの中空に、赤黒い点が生じた。
それは見る間に滴り落ち、腹を割くように空を割る。
そして、ソレが一歩を踏み出した。
ドシャリ
と、踏みしめた場所から、赤黒い血が湧き出し溢れ広がる。
領域が軋み、悲鳴をあげて侵食が広がる。
血腥い臭い。
血風が吹き荒れ、腐った臭いが館に広がる。
それは小さな点から見る間にすべてを覆い尽くした。
青白い術は血に塗れ塗りつぶされていく。
染みが広がるように上も下も無く、黄泉の風が吹き抜けた。
黄泉の風だと、わかった。
「見えていますか?」
「ミア」
「点火剤準備。備えよ」
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