第836話 空想の怪物 ⑦

 このオルタスに生きる人には、多くの違いがある。

 外見の違いは多彩で、違う事に不思議はない。

 獣人然り、亜人然りだ。

 壁の手跡は、人の手に見えた。

 人が這い回ったのだと、見て取れる。

 摺り足をしたような不定形の跡も、少しはあった。

 しかし、それでも人の足の跡と覚しきものが無い。

 まるで型染めをした布に落ち葉の模様があるように、白い壁に手形が無数にあるのだ。

 手形の流れは窓に向かっていたが、無数の手形、指の向きはバラバラであった。

 非常に奇妙で不可解。

 咄嗟、ありえないと否定した。

 ありえない。

 まるで足のかわりに腕が生えた四本腕の何者かが、壁を血塗れで這い回ったようじゃないか?

 と、馬鹿らしい考えが浮かんだからだ。

 オルタスの人とは、手足がある事は変わらず、そこに細かな違いがあるだけだ。

 手は二本であり、足も二本、頭も一つだ。

 欠けていたとしても、手が四本に増える事は無い。


 馬鹿らしい想像だ。


 だが、宮にはいるだろう。そんな思いもあり、否定できずに不安がわく。

 宮にいるべき者共が、地に湧き出ては人を喰らう。

 そんな条理に反する事がおきてはならない。

 おきてはならぬのに、おきていたとしたら?

 それは..


 前を行くミアが馬首を返した。

 彼女は相変わらず敏い。

 私が何やら考え込んでいるのを見て取ったのだろう。


「どうしました?

 モルド、アタシのかわりに前につけ」

「了解」


 揺れる荷駄の上で、会話用に渡された小さな紙切れに文字を綴る。

 ミアは、酔うから休憩地に着いてからにしましょうと言ってくれたが、気になってしょうがないのだ。

 ガクガクとしながら書き綴る。

 テトが邪魔をしてくるが、抱え込むようにして押さえた。


「よく分かりましたねぇ」


 紙片を受け取ったミアは、自分の馬を器用に足だけで操りながらテトの鼻を突いた。

 突かれたテトが前足でタシタシと、その指を軽く叩き返す。

 その様を笑いながら彼女は続けた。


「荷揚げの関にも襲撃があったようです。

 前に駐留していた三公内地の、まぁシェルバン兵士は消えちまったそうです。

 今、あそこにいるのはの補充のコルテス人です。

 この先にあるコルテスの砦からよこされた者達ですね。」


 三度とは?と、指をたてて聞くと、彼女は肩を竦めた。


「定期巡回で荒らされたのを発見後、砦から人を送り込んだそうです。

 で、ところが、又も連絡が途絶えたんで補充。

 それの三回目だそうです。

 砦の方へ何かあったら伝令を送るって事になってるそうですが、その砦からの連絡、巡回も来ないそうで。そろそろ此方からつなぎを取ろうかって話になっているそうです。

 今回、アタシ達が向かうんで、ついでに砦の様子がどうなっているのかも、確認する事になりそうです。」


 世の光りが失われ、陽が陰るような気持ちになる。


 何が怖い?

 あぁ怖い。

 わからない事が怖い。

 対処できないできごとに遭遇しそうで怖い。


「大丈夫ですよ。

 ほら、呑気な猫の顔をごらんなさいな。

 アタシ達が側におりますからね。

 お前もご主人様を慰めな。

 それに姫様、この隣で護衛してる馬鹿の顔をご覧なさいな。

 こんな凶悪な面した男が側にいるんですから、存分に盾にして使い潰してやってくださいよ」

「..盾になるのはいいが、何で潰すんだよ」


 弱気になっては駄目だ。

 悲観して弱腰になってはならない。

 守られているのだ、迷惑をかけてはならない。


「ほら、アンタも何かいいな」

「何をって、あぁ、その、大丈夫ですよ。

 俺達、見かけよりもずっと、できるんで、その」

「あぁ、アンタに喋らせたの間違いだったわ。」


 と、ザムの顔を見上げると、彼も困ったように笑っていた。


「ちょっと落ち着きましたか?

 一応先の予定をお知らせしておきますね。

 この先にコルテス領主街の一つ、モルソバーンに向かいます。

 この街は比較的大きくて、氏族の長がいるそうです。

 ここで現在のコルテスの状況を確認後、モルソバーンから北北西にあるコルテス領軍の砦を経由して、更に北上します。

 一応、今のところの予定ですかね。」


 頷く私に、ミアはテトの頭をグリっと撫でると笑った。


「東はアタシも初めてですからね、よくよく見て回りましょうや。珍しいものがあるかもしれませんよ」


 頷き、私は恐れを押しやった。

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