第860話 モルソバーンにて 其の四

 悪夢だ。

 音が消え、時間が引き伸ばされる。


 見える景色は狂人の夢。

 肉の塊。

 ぬめる表皮。

 噛み合わされ軋むあぎと

 仲間をお押し退けて重なる姿。

 手。

 たくさんの人の手。


 薄桃色の表皮は、人の肉と同じに見える。

 人間に、似すぎていた。


 大きな犬ぐらいか。

 目のない蜥蜴か、いや、山椒魚のような姿。

 頭部には口だけがある。

 人間のような赤い唇に、みっしりと歯が詰まって見えた。

 手足は筋肉質で、形が人の手にそっくりだった。


 あぁ後ろ足も、人の手だ。

 だから四本手に見えるんだ。


 頭の片隅で、ゆっくりと思考が流れる。

 ゆっくりと時間が引き伸ばされたように思えたが、一瞬の事。


 私はすべるように地面に落とされ、カーンは飛び出すと剣を振り抜いた。


 醜い声があがる。


(ふふっ、君の恐怖が伝わった。

 見えていないけど、君の恐怖がわかったんだよ。

 後は野獣のように本能が答える。

 見えなくたって、いいようだね。

 野蛮人の本領発揮だ。やだやだ)


 一振りで殺到しようとした異形を留め、返しの振り抜きで押し返した。


 その突然の抜刀に、イグナシオとザムも反射的に得物を構えた。


「なんですか、何がいるんですか?」


 ザムの叫びに、カーンは応えず唸り声をあげる。

 その間にも闇から異形の姿が浮かび上がる。

 工房から、資材から、異形が這い出し、虚空から形が見えてくる。

 私は尻もちをついたまま、背後を振り返った。

 受付の屋根にも、みっしりと。


 あっという間に、二人の姿は異形に覆い尽くされた。


 血飛沫。


 唸り声。


 瞬きひとつの間。


 私は何もできずに見ていた。


 見えないモノに食いつかれ、驚きながらも手を振り回す彼等。


 血。


 喰い付かれ、血が吹き上がる。


 二人の血が、顔に降りかかる。


『やだ、止めて』


 イグナシオは、腰から短刀を抜くと、背後に取り憑いたモノへと突き立てた。

 手応えはあるのだろう、彼等の血を浴びて、その姿はうっすらと浮き上がっていた。

 だが、それでも見えない者達には、痛みを与える原因がわからない。


 ザムの首筋に深く喰い付いたモノに、私は短剣を抜くと切りつけた。

 彼は血の泡を口から溢している。

 喰い付かれた場所が悪かった。

 痛みに歯を食いしばり、徐々に擬態を解いていく。

 でも、蟻のように、異形が集まってくる。


『止めろ、止めてよ、止めて』


 何度も短剣を突き立てた。

 なのに、私には喰い付かず、異形は尖った爪でしがみつき、深く深く噛み続ける。


「カベ、サガッって!」


 ザムは私を押し退けると、剣を握り直す。

 目を閉じたまま、剣を振り抜き、感を頼りに切りつけた。

 それは見えるかのように、異形を断つ。

 だが、すぐさま次々と異形が集る。

 間に合わない。

 斬り、断ち、押しのけ。

 見えないモノに喰い付かれて、二人は徐々に血を失っていく。


 イグナシオは、怒りに歯を軋らせた。


「カーン、何が見えるんだ!」


 カーンが斬り倒す分だけ、私達の周りに隙間ができる。

 だが、やはり数が多すぎた。


「薄ぼんやりとしか感じられねぇが、オリヴィアが見えてるモンはぁ犬位の大きさの四つ足だぁ!

 畜生めっ、でかい口で喰い付いてきやがる。

 オリヴィアを下げろっ!」


 その間にも、イグナシオの腰に二匹、喰い付いた。


「クソがぁ!」


 見えないだろうが、彼は拳でそれを叩き伏せた。


 ザムが私に手を伸ばす。


 イグナシオが、その後ろで振り返る。


 再び、ゆっくりと時が流れ。


 私は短剣を持ったまま、屋根の上から異形が降るのを見ていた。

 異形は二人の背に飛び乗り、汚らしい爪を振り上げ。


 やめて


 まっか


 喉に突き立て、掻き切った。


 あたたかい血。


 まっかだ。


 私


 わたしは


 ワタシ


(ふふふ..ふふ..あはははは!)

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